free 展覧会へのコメント (2014年12月、2015年1月、2月)

展覧会へのコメント(2014年12月、2015年1月、2月)



12月に訪れた上海のアートシーンの一部を紹介しよう。

"Approaching Zero" Gao Ruyun個展(M Art Center、11月29日~12月31日)

上海のマーケット志向の作品が多いなかで、表現を最小限の要素に還元し、背景の白い環境に溶け込むことを狙った(Approaching Zeroの意味?)かのような作品は珍しい。

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"Mr.Hungry" Tang Dixin個展(Aike-Dellarco、11月14日~12月14日)

ギャラリーの白壁をロッククライミングで登攀するアーティスト。壁には、その模様を撮影したヴィデオと、その痕跡。このようなパフォーマンスの作品も、以前はコマーシャルギャラリー(コマーシャル以外では、中国のパフォーマンスは反体制派の活動としてつとに有名)に飾られることはなかったが。

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"Fat Mouse" Yu Honglei個展(Antenna Space、11月8日~2015年1月15日)

文字通りのシミュラークル(というより複製?)とポップ(形態と色彩)で、現代アートは決まり(そして売れる)と思い込んでいる中国の典型的なギャラリーで展示された作品。

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"In Memory of a Landscape"展(James Cohan Gallery、11月13日~12月31日)

ニューヨークにもスペースのあるJames Cohanの上海のスペースでは、Shi Zhengの企画による「風景の記憶」というタイトルの3人展が開かれていた。

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以上、Chen Yujun

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以上、Huang Yuxing

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以上、Yuan Yuan


i-Gu Changwei’s Contemporary Art Exhibition(Museum of Contemporary Art Shanghai、11月13日~2015年3月31日)

人民公園のなかにあるMOCA上海で開催されたのが、映画監督チャン・イーモウやチェン・カイコーと同期の撮影監督にして映画監督、Gu Changwei(クー・チャンウェイ)の個展。
普段は誰も注目しない紙幣の細部を撮影し拡大した写真は、微妙な色調の変化も見逃すまいとする客観性への意志を感じさせる。客観性への意志は、都市の風景を、刻々と時間をカウントしながら撮影した映像作品にも感じられる。Ai Weiweiに同じような都市の風景を撮影したドキュメンタリー映像があるが、Weiweiが中国の現在の繁栄とその代償を都市の活動を通して指摘しようとしたのとは違って、Changweiの場合は、都市の風景の客観化への憧れがひたすら強い。しかし、そのように客観への意志が強まれば強まるほど、感情表白への欲望が高まることを見逃してはならない。Changweiの視線は、客観と感情が乖離する狭間でたゆたっているのだ。彼にとって、デジタルは客観性への傾倒、ピクセルは客観性の保証、赤は情感の表出を意味しているだろう。

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Ugo Rondinone "Breathe Walk Die"展(Rockbund Art Museum、9月13日~2015年1月4日)

美術館の壁がレインボーカラーに彩られた全4階の展示室を使って行われたUgo Rondinoneの個展。各階に道化が無為に横になっていて、生活が急激に豊かになり目まぐるしく移り変わる上海に対して、焦らず急がず、もっとゆっくりのんびりやろうよと無言のうちに諭しているかのようだ。
展覧会のタイトルで言えば、Breatheが、道化のこの状態に当てはまる。では、WalkとDieは、どこにあるのか? もちろん、道化はいつまでも寝ているわけにはいかない。美術館は彼らのもの(彼らは雇われている)ではないからだ。いつか立ち上がって「歩」き出さなければならない。そして、美術館の外に出て、どんなにおとなしく静かにしていても、時間が経てば「死」ぬ。
道化役の人間は美術館内で動かなくてよいとはいえ、現実的には労働している。この作品で明らかなように、レジャーとしてのアート(道化を見る観客を参照)と、労働者の世界(道化の衣装を着た人間)の次元の違いは歴然としている。しかし、アートは労働者同様、現実に属しているので、この違いは同一の世界に属する。それが社会的矛盾となる。この矛盾を、アートはあくまでレジャーであると押し通して、しらばっくれるのか? それとも、反省的に労働問題に注意を向けるのか? この作品が、そのきっかけ(道化たちの労働価値よりはるかに高い商品価値を有するこの作品への素朴な疑問)になることはできるか?

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Fang Wei "Assasin"展(BANK、11月15日~2015年1月11日)

歴史的建築に指定されている建物のなかにあるギャラリーBANKで開催されていたのが、Fang Weiの絵画展。
新・新表現主義絵画。情念的・内臓的と言えばよいか。

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Wang Dawei 新作展(FQ Projects、11月23日~2015年1月16日)

大通りから裏町の住宅街に入ったところにある長屋の一軒を改造したギャラリー。初めての人には、見つけるのが難しい。

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ギャラリーから出たところで、近所の犬に吠えられました。



「秋山幸 | 密林の絨毯」展(実家 Jikka、2014年11月22日~12月14日)

秋山幸の絵画に横溢する素朴さを目の当たりにして、それを的確に説明する言葉が浮かばないことに、いつももどかしさを感じる。今回もそうだった。素朴さが洗練に通じているのだ、洗練とはいえ、素朴さが複雑な経路をたどって洗練に至る反対物の統一ではない。また、ヘタウマのようにフリをする媚態で気を引こうとするのでもない。簡単に稚拙と言うこともできない。稚拙というなら、それが一気に洗練に接合される素朴さであるに違いない。それは、素朴さが聖性(とはいえ超越的審級のない)に包まれる瞬間なのだ。目撃する人によっては、それを洗練と呼びたくなるのではないだろうか。

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ブリジストン美術館 コレクション展

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FBで紹介済みのウィレム・デ・クーニング展を鑑賞した後、ブリジストン美術館に併設されたコレクション展を観る機会があり、気になる感想を得たので、ここに記しておく。
ブリジストン美術館のコレクションである19世紀リアリスム絵画以降の絵画を観て回って、ある疑問が湧いた。作品の数が少ないのとクオリティが低いのは、他の日本の美術館と同じなので不満は投げかけないことにするが、モダンのマスターと呼ばれる画家の作品を見ていて、高揚感がないどころか、どうしても入れ込むことができない。作品のクオリティの問題だろうか? 何回も会場を行ったり来たりしてはたと気づいたのは、ザオ・ウォキーと堂本尚郎の特別展示を見ていたとき、彼らの作品が抽象でありながらイリュージョン(再現的イメージ)を最終的なよりどころにしているのではないかということだった。そのような観点をとらなければ彼らの作品が良いと思えない。そのイリュージョンは、彼らの画面では絵の具のマチエールの余白に生じているのだが、その理由は、となりの展示室に陳列されたスーラージュ同様、イリュージョンを排除する抽象画にあって密かにイリュージョンが再導入されていることだろう(デ・クーニングに代表されるアメリカの抽象表現主義が、イリュージョンとの闘いに命を懸けたことを、この美術館の企画展で確かめられたことは皮肉だった)。しかし、彼ら(ウォキーと堂本)は、表現の矛盾に妥協してそれを等閑にしてしまったのではないか。この矛盾が、鑑賞者をしてマチエールかイリュージョンかのどちらかに視覚の焦点を合わせようとする空しい努力を促す。その結果、マチエールを選択した私は、印象派などの具象画まで、イリュージョンではなくマチエールに偏った見方をせざるを得なかったのだ。その見方は、展示室に一点飾られたポロックの絵画にまで影響を及ぼした。レアリスムや印象派、ポスト印象派を、単なるマチエール(物質的素材)に焦点を合わせて鑑賞することは、悲惨な結果を招く。それだけではない。20世紀の抽象画をマチエールをリテラルに捉えると、文字通り絵画を破壊してしまう(それが分からない人間がいること自体大問題なのだが)。抽象画こそ、イリュージョン(再現的イメージ)ではなく、イマジネーション(想像力)を最大限に働かさなければならず、そうでなければ抽象的フォルムの素晴らしさを堪能することができないというのに(その端緒となる画家がポロックであることを、念のため述べておく)。私が観た収蔵品展は、このイマジネーションを働かせるのに困難な展示の仕方をしたのではないかと勘繰りたくなる。同じ系列の久留米の石橋美術館が、非常に美しい展示であるのとは対照的に、東京のブリジストン美術館の展示は、見れば見るほど暗鬱になってくる。イマジネーションを殺すような展示をわざわざしているように見えるからだ。過剰なイマジネーションが危険であると、美術館が気づいているのだろうか。実は、イマジネーションは未来に向けて世界観を差し出すことを付帯的な力能としている。しかし、このイマジネーションの変革への志向を快く思わない勢力がいる。まさにアートが思想的に曲解されて体制に組み込まれる最悪の例が、ここにはある。欧米でさえ、ここまで反動的ではない。というのも、欧米はモダンアートにモダンの思想を反映させているが、日本はモダンを模倣するというプレモダンの思想(封建的主従関係に奉仕)を作品に反映させることを要求したので、このような矛盾を呼び寄せてしまったのである。そこにあるのは、モダンの物質主義をプレモダンのイリュージョン=表象で実現するという離れ業である。結果は、見るからに苦しげなリテラルな物質の認識と、それに起因する表現のスケールの小ささである。モダンの革命を苦々しく思う支配層の人間(日本の支配層は、モダニストを装うプレモダニスト)がいる。そのような人間がモダンアートに魅せられる場合、モダンアートからその革命的要素を抜き取ってしまう(現在では、ポストモダンからその革命的要素を抜き取って、単なる伝統回帰の反動になる)。それが、イマジネーションなき展覧会へと帰結する。スーラージュほど、この役目を忠実に、そして欺瞞的に果たす適任者はいない。イリュージョンを排除すると称して、アートにとって生命線となるイマジネーションまで追放してしまうのだ(というより、イマジネーションというアーティストにとって不可欠の能力がないのだ)。イリュージョンは、20世紀後半、抽象表現主義以降の戦後のアメリカのモダンアートによって排除された(フランク・ステラやリチャード・セラの作品を見よ)。彼らが、その代わりにイマジネーションの重要性を主張してきたにもかかわらず、それを無視し、イマジネーションをイリュージョンと故意に取り違えて排除すると宣言する。その舌の乾かぬうちに密かにイリュージョンを復活させてしまう(スーラージュの黒のモノクロームの作品を見よ。モノクロによるイリュージョンの追放と、光の反射による裏口からその再導入が、正々堂々と行われている)。この小賢しいトリックが、作品のスケールをモダンの初期の具象画にまで遡って収縮させてしまう。ブリジストン美術館という一般に少なからず影響力のある施設の展示の思想的偏向を見るにつけ、日本のアートがきわめて憂慮すべき状況にあることを知り暗澹たる思いになる。
このような見方が成立するのも、モダンの初期の具象画をイリュージョンではなくマチエールの集合として捉えてしまったからではないのか?



泉太郎 「合同ピ、解放ポ」展(Take Ninagawa、2014年11月8日~2015年1月30日)

泉太郎は、ずいぶん素朴にマイルドになったものだと思っているところに、泉くんがぬぅっと姿を現した。その第一印象を彼に語ると、彼もそれをすんなり認めた。たしかに、このくらいストレートなほうがマーケットでは売れやすい。これはまったく悪いことではない。なぜなら、アートにとってメッセージが明確であることは、コミュニケーションをより有効に広範囲にするからだ。だが、彼の話を聞いているうちに、やはり一筋縄ではいかないものが飛び出してきた。さすがに泉くん、不可視なギャップを各作品の各所に忍ばせてあったのだ。そのギャップが表現にアクセントを与えるだけでなく、その両端の表現を歪ませて、絶妙にコミカルな魅力を添える。それは、時間のギャップを表現する動画の静止画のパラパラ漫画に、典型的に現れる。あるいは、5人の人間のフリーウォークの写真が空間的に切断されて、床に敷かれたコンクリートの舗石の痕跡になる。最初の写真に写された作品は、モノクロームの絵画かと思いきや、街の風景を切り取るための背景だったりするのだ。泉のテクストを切断する狡猾な手さばきは冴えまくっている。

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開発好明 「日の出・月の出・印象」展(ギャラリー・ハシモト、2014年12月19日~2015年1月17日)

展覧会のタイトル、作品とも風刺の効いた開発好明の個展。これまでユーモアを含んだ政治的表現を精力的に発表してきたアーティストの新旧の作品は、印象派のモネの作品「印象 日の出」にかけて、日の出と月の出の時間的推移を追いながら、日本とアメリカとイスラムの国旗を描き出す(天体の運動のなかで、それぞれの国旗が不意に出現する時刻がある。イスラム国の旗には必ず三日月と星印が刻まれている)。そのことによって、現下の政治状況が仄めかされる。日の出から月の出へは、1999年(湾岸戦争時の派兵問題)から、2014年(集団的自衛権をめぐる憲法改正問題)までの歳月が流れているが、この間、日本を含む世界の情勢は急速に変化した。日本は、そこに否応なく組み込まれていくだろう。最近のシリアで起こった日本人の人質殺害事件への政府の対応は、この方向への積極的な関与を決断したかに見える。国民も、支持率で見る限り憲法改正を受け入れようとしている。このような状況で、アートは何をなし得るだろうか? 開発の作品が、今や地口や冗談ではすまされなくなって、鳥肌の立つ不気味な事態と感じられてしまう時代に突入していると驚くのは、私だけではあるまい。

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「活動のデザイン―The Fab Mind」展(21‗21 Design Sight、2014年10月24日~2015年2月1日)

非常に興味深く面白い作品が並んでいた。日常生活を改善する素敵なアイデアがいっぱい。しかしながら、デザイナーの思い描く世界は日の目を見るのだろうか? たしかに、すでに実現されているものもあり、便利で美しい世の中になるのを助けてくれている。これこそ、企業の儲けのみを目的とするのではない、デザイン本来の誇り高き機能ではないか! とはいえ、それでも具体化された世界は、理想とはほど遠いと感じられる。私のこの懐疑は、デザインが未来をバラ色の夢として描く傾向にあるところから来ているのかもしれない(改良主義で進歩主義のデザイン。そのオプティミスティックな希望は、どこから? 反対のペシミスティックあるいは絶望するデザインはないのか?)。だが、バラ色と見える世界は、ディストピアではないのか?
この疑問に答えるのは、奇しくも同展覧会に出展された「ドローンの巣」(Superflux)だったかもしれない。それを見ながら思ったことは、未来においてわれわれは疎外も物象化されもしないだろう。その意味で完璧とは言わないまでも満足できるほどにわれわれは自由だが、隈なく監視されてシミュラークルと化している。展示作品のことごとくが、人間をシミュラークルにする装置だとすればどうだろうか? 人間の自由まで管理された世界が、われわれを待ち受けているとすれば…。

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Superflux「ドローンの巣」



「観音山 岩名泰岳」展(MA2 ギャラリー、1月14日~2月7日)

同じ素朴さといっても、前出の秋山とはまったく出方(趣き)の異なる絵画の展覧会が開催された。岩名泰岳の個展である。彼が、ドイツから帰国後、故郷の三重県の伊賀に引きこもって制作に打ち込んでいることは、ツイッターで聞き及んでいた。その成果がようやく東京で鑑賞できる。「観音山」と題された個展は、彼の住む家の裏にある山にまつわる出来事がテーマになっているのだろうが、伊賀から遠く離れた都会に住む人間にとっては、それはまったくの未知の世界(宇宙)である。それが幸いしてか、彼の絵画を物語に回収されない直接的なインパクトのある表現として受け取れる。たしかに、絵画の表面的な特徴は素朴(プリミティブ)なスタイルではある。そこに、伊賀の地域の山岳にまつわる呪術的な意味が籠められているかもしれない。しかし、先述のほどよい距離が介在して、われわれには彼の技術的な巧みさが先に視覚に飛び込んでくる。とはいえ、それが目立つようなわざとらしさはない。形式としての洗練と内容の素朴さが、見事に融合した作品だろう。

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友政麻理子 「近づきすぎてはいけない」展(Talion\Gallery、1月10日~2月8日)

FBで作品の展示構成を見せたので、ここでは映像の内容の一部を動画で示しながら、ブルキナファソのお父さんと日本の娘の擬似家族的な交流を説明してみたい。過去に彼女が行ったフィクションの父親との対話のパフォーマンスは、日本では気心が通じて相手が他者の役をこなさなかったように見えたり、台湾では一方通行のモノローグ調のように見えて、あまり心を動かされなかったりしたが、このヴィデオでは、アフリカのブルキナファソで親娘の間に、確かなコミュニケーション(意思の疎通)があったように思う。それは、言葉を越える感情の交わりだったが、言葉(お互いが優しさと誠意をもって話す各々の母語や拙い英語、それに身振り手振り)なしには成立しなかったのではないか。

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中村亮一 「Recollections」展(KOKI ARTS、1月10日~2月14日)

中村亮一は、一貫して人間や人形を用いた内面(感情)の表出に取り組んできた。今回のモチーフには、家族など身近な人々を選んでいる。主題が内面となれば、作者が親密な感情を抱きやすい人間が最適なモチーフだろう。他者の感情を引き出すには、表現主体から感情が喚起されることが潜在的な要件になるからである。「記憶=回想」と題された個展に展示された作品群は、このタイトルから想像されるように、作者の過去の経験を主要な内容としている。とはいえ、それは正確に過去の事実を再現するものではない。記憶に参照しながら、そこから離脱する想像力のモーメントを含み、感情を効果的に醸し出す幻想へと導かれる。ただし、現実から完全に切り離された幻想ではない。それは、中村が描くのがあくまで彼ではない他者だからである。
これらの絵画の特徴は、変形カンヴァスだろう。標準的な矩形のカンヴァスではない絵画は、すでに様々なタイプが試されてきたが、中村の絵画ほどの奇妙な外形の作品はほかにはあるまい。この形は、どこから生まれるのか? シミの広がりのような、絵の具が垂れたような、偶然にできたと思われる不定形のカンヴァスは、それから想像される物理的起源を未だに保持している。その外形に、想像力による幻想化という主観的なイメージがはめ込まれる。物質的必然性(物理的制約)と想像的可変性(主観的操作)の鬩ぎ合いが生じるのだ。その齟齬が、内容のイメージに深遠さの次元を与えるのである。

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Dialogues展 (NICA)
第1回展 ひかりのまち(1月16日~1月31日)
NICA(Nihonbashi Institute of Contemporary Art)の開館記念の連続二人展の第1弾は、シャーロット・マクゴワン・グリフィンと栗山斉の二人展だった。東京のど真ん中にできたプライベートのアートセンターのこけら落としの企画展として、グリフィンと栗山は、ジャンル的に別だが共通の問題意識を持っているように見える。それは、二重構造をなして、土台にはメディウムとしての光、そして、光に媒介される精神的な要素である。グリフィンは、木と紙を用いた構築物がサンクチャリのような雰囲気を醸しており、江戸時代商業の中心だった日本橋に残された大福帳をなかに展示している。この世俗性と容器の自然の素材からなる宗教性が一体感をなしていることに、栗山の蛍光灯の構成物が呼応し、グリフィンと同じ二重の構造を開示する。それは、光と宇宙のらせん構造である。蛍光灯(とガラス管)という物質的要素と、それが描き出す宇宙の進化を予感させる形態は宇宙論につながる。
素材は自然と人工で異なるが、二つの作品はその狭間で光が交錯しながら混じり合い、一方の宗教性と他方の宇宙論というプレモダンからモダンへと歴史的変遷をたどる精神が出会うのだ。

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その二重構造は、第2回展の「かわのまち」(2月6日~2月21日)にも受け継がれて、ジョン・ササキと森田浩彰のコラボレーション作品は、日本橋界隈を流れる川に架かる橋を異なる文化をつなぐ懸け橋と見立て、その下を流れる川の底から引き揚げられた様々な投棄物に、両岸の世界に通底する物質的基礎(とはいえ自然ではなく、産業生産物の都市の土台である)を見出している。この作品は、第1回の精神的色彩の強い作品と比較して、物質的なものが強調されていると言えよう。

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現在の日本のアートの残念な体たらくに鑑みると、決して広くはないが、このスペースが今後東京のアートシーンに刺激的なインスピレーションを吹き込む役割を果たしてくれることを期待する。

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佐々瞬 「とある日のこと(箱を受け取る)」展(Alainistheonlyone、1月15日~2月21日)

展覧会への私の解釈は以下の通り。
作品は鑑賞者の主観(解釈主体)に完全に委ねられているが、その圏域からも作品が抜け落ちていくところが、スリリング(典型的なのか、箱が持ち出されるかもしれないこと。作者から作品が決定的に喪失する危険性がある。「関係性の美学」がからかわれているのだろうか?)。佐々瞬が作者であることは間違いないが、作品と作者を、鑑賞者やテキスト(台本)やトーク([代理トーク])の介入で引き離そうとしている。作品の外部にいることで、逆説的に作者となるのか?

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会期中に行われた[代理トーク]の解釈は次の通り。
代理は、単に説明するのが苦手なので身代わりを立てただけなのかもしれない。それは、説明がもっともヘタだと思われる泉太郎を指名して代理に選んだことで予想される。素の人間も演技しているのに、代理をテーマにしたので、代理の演技に対立する役目を素が担わなければならなくなった。そのため素は素として反演技となり、演技を剥奪されて演技と無演技の素の間の懸隔が極度に狭まり、トークの後半息苦しい窒息状態に追い込まれたのではないか。それに嫌気がさして逃れようとし、アーティストの代理の各自の反応が混乱をきたしたとは言えまいか。それは、素朴な演技に反省を促された人間が陥る自同律の危機である。素朴さと反省の間には深淵が横たわるのだ。

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結論。作者と作品の間の隔たりを様々な仕掛けで拡大することで、その間に鑑賞者やテキストを挿入して多様な解釈を繁茂させる。さらに代理の解釈を利用して、作品の豊饒な意味を確保する。あるいは、代理の意見で煙に巻き作者の真意をカムフラージュする。さて、どこに真実があるのだろうか?



ホイッスラー展(横浜美術館、2014年12月6日~2015年3月1日)

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ホイッスラーが生きたのは、アートをめぐって激動の時代だった。1834年にアメリカで生まれた彼は、1855年にパリに、さらに1859年にロンドンへと移住した。その後、1903年に没するまで、大きく前期(〜65年)と後期(66年〜)に分けられる活動に専念した。彼の活動した19世紀後半は、絵画の歴史で言えば、再現的なもの(具象)から非再現的なもの(抽象)への移行期、いわゆるモダンアートの黎明期として捉えられる。そして、ホイッスラー亡き後の20世紀は、この過程がさらに押し進められて純粋な抽象画に至るというのが、絵画史の通説である(この単線的な発展史観が正しいかどうかは、ここでは問わない)。
ホイッスラーの今回の回顧展では、クールベに代表されるフランスのレアリスムに影響を受けた彼の前期の絵画に興味を抱いた。ホイッスラーの写実主義的な描写のリアリティに強く惹かれたのだ。展覧会の最後の展示室の壁に書かれたホイッスラーの言葉、主題と形式(色彩と形態)は無関係であるをまともに受け取りたい。主題は無用ということではなく、その二項の間には大きなギャップがあるということだ。彼の唯美主義的な発言には騙されないようにしたい。むしろ、彼の作品に内容(明確なメッセージ)があることをカムフラージュしている。それは、たとえ後期の作品であろうと、暈されることはあっても主題がなくなるわけではないことではっきりする。
上述のギャップが重要なのだ。彼の絵画には主題と形式が無関係に共存している。彼の主題が、他の主流(レアリスム、ラファエロ前派、印象派、象徴主義だが、これらの前衛は当時は周縁にあったが、現在から見れば主流という意味で)の運動から選ばれていることに注目されたい。ホイッスラーは、主流(メジャー)から様々な要素を引用してデフォルメするマイナー(ドゥルーズ)なアーティストだったのだ。表現の形式の要素である線も形も色彩も意味であり、それがモダンライフの豊かさを構成しているのである。
これは、彼が採用したこの戦略は、現代にも適用できるだろう。現代アートで使える有効な方法である。もちろん、まったく同じ要素ではなく、例のギャップを活用するという意味で。現代アートでは、形式にシミュラークル(ジャポニスムのシミュラークルも可能か?)、主題として、ホイッスラーのようにブルジョア生活ではなく、社会的、政治的問題が取り上げられる。
ホイッスラーの画業における白眉は、やはり「ノクターン」のシリーズだろう。回顧展では、このシリーズの作品が少ないと思われたので、もっと数を揃えて欲しかった。絵画であれ水彩であれ「ノクターン」を見ていると、同系色の色調の繊細で微妙な配列が、画面に物事の判然としない空間を生み出していることに気づく。この曖昧な空間は、ランシェールの言うように政治的(ランシエールによれば、政治とは直截に感覚の配分と布置)である。これは、ベンヤミンの言う「美学の政治化」ではないか? ならば、ぼんやりとして薄暗い空間は革命的だろうか? それとも反動的なのか?



オル太 「ヘビの渦」展(NADiff Gallery、2月6日~3月8日)

オル太にしては珍しい金属彫刻が、スペースのほとんどを占める。水を電波=情報に見立てて、現代の政治が大量の電波=情報を頭から浴びせて人間を翻弄し洗脳する様を揶揄する作品。オープニングでは、模型の国会議事堂のなかに線香を供えて、国家の脳たる議会の死を暗示するパフォーマンスを行った。その前の壁には、選挙ポスター用の掲示板を模した映像を投影し、その擬似ポスターに政治の専横を暴露したり、民衆を抵抗へと鼓舞する標語が書き込まれる。素材は変われども、オル太のいつもながらの誠実なアナログ感覚(今回は内臓感覚的)は健在であり、プリミティブだが洗練された情念あふれる現実批判は鋭い。

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初日に行われたパフォーマンスから


今津景 個展「ブロークン・イメージ」(山本現代、2月28日~3月28日)

イコノクラスム(図像破壊)をテーマに、仏像、瓦などの図像と、それを破壊したり崩したりする絵筆の動きが残す絵の具のマチエールの絡み合いが、なんともセクシーな空間を生み出す。そのためか、絵の具のマチエールがイリュージョンのように感じられる。図像と物質の区別と対比が図と地の反転を引き起こし、鮮やかな印象を脳裏に焼き付ける。イコノクラスムを通して、筆遣いと図像とマチエールの関係に再考を促す絵画ではないか。

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2015.03.01 | コメント(0) | 展評

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