展覧会へのコメント(10月)
ヨコハマ トリエンナーレ 2014(横浜美術館+新港ピア、8月1日〜11月3日)
「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」 。今回のトリエンナーレにつけられたこのタイトルがどう解釈されるにせよ、このように時代がかったタイトルは空振りに終わる運命ではないか。世界に中心がないことは、陽の目を見るよりも明らかだからだ。たとえ中心があるように振る舞ったとしても、それは空虚を隠すシミュラークルでしかない。だが、それを本物と取り違え、張りぼての玉座に祭り上げる人間がいる。それこそ、ポストモダンの右傾化の証拠である。
再度、確認しよう。世界に中心はない。あるように見えるとすれば、それはフェイクであり、そこにあるはずの忘却の海もフェイクである。ということは、世界の中心には決して忘れることのできない核(「器官なき身体」)があり、それが世界を支配している。忘却は、この真実を掩蔽する仮装のマントなのだ。
さて、このタイトルのトリエンナーレは、白(未生)の無の第1話から始まり、忘却(もう一つの白)の無の第11話で終わる一つのサイクルを描き出している。しかし、その間に入る作品の数が少ないので、二つの無の間のスペースに、無ではない冗長な空白があることに気づかされる。したがって、サイクル巡り(鑑賞)が充実感をもたらすことはない。確かに、第2話と第3話に登場するアーティストたちは素晴らしい。












以上、第2話 釜ヶ崎芸術大学の活動の産物と、その記録

エリック・ボードレール、The Ugly One、2013年



足立正生の原作(一部)
だが、第2話の釜ヶ崎芸術大学と、第3話のタリン・サイモンとエリック・ボードレール(彼の映像作品は傑作。足立正生の原作とナレーション、注目のレバノン人アーティスト、ラビー・ムルーエが主役となれば、面白くないはずがない)の二人を除けば、



ドラ・ガルシア、華氏451度(1957年版)、2002年




マイケル・ラコウィッツ、どんな塵がたちあがるだろうか?、2012年
第3話のドラ・ガルシアとマイケル・ラコウィッツの展示作は、彼らの実力を十分に示しているものとは到底言いがたい。









第3話 大谷芳久コレクション
また、大谷芳久の戦時中の興味深い資料も、深く記憶に刻むにはもっと数多く陳列されてよいと思う。
ここまでが、二つの会場の一つ横浜美術館で鑑賞される展示の半分で、後半のスペースは、アーティストがキュレーターを務めたことの不可避の代償なのか、アーティスト神話の復活(逆のアーティスト否定の第5話Temporary Foundationの巨大インスタレーションもあるが、否定は肯定の裏返しであり、いずれアーティストを復活させることに帰着する)を目論むかのようなセクションで、まったく手応えがなかった(見っけものは、アリーナ・シャポツニコフのみ)。
1960~70年代、ロラン・バルトによって「作者の死」が宣言されたが、80年以降ポストモダンに入ると、またぞろ言い訳もなく、アーティストがアートの世界を大手を振って歩くようになった。そして今、遂にアーティストを神格化する物語が臆面もなく語られることになるのだろうか? 曰く、シシューポスとしての力業(第4話)、無邪気で自分勝手な子供の遊戯(第6話)という具合に。だが、シシューポスの働きに人類の救いを託す者はいないし、結局大人に依存することになる我儘な子供の遊びに付き合う暇な人間ももはやいないのではないか。
「作者からテクストへ」とバルトはかつて語ったが、では時代を経た現在、安易にその逆を遡行すればよいのか? そうではあるまい。テクストから作品を復活させ、その作者を神格化するーー横浜美術館の中心にあるマイケル・ランディの巨大な容器は、アーティストの肥大化した自我の入れ物であり、いかに失敗作を放り込むごみ箱だとしても、彼らの名声を高めるための自己満足の具でしかない。そうであれば、このごみ箱をひっくり返さなければなるまい。つまり、鑑賞者はこの容器のなかに入って外を眺めることである。そうすれば箱の外の光景は、どのように見えるのだろうか?ーーのではなく、テクストから鑑賞者へとアートの中心を移動させなければならない(鑑賞者に中心を移動させることは、鑑賞者が潜在的に無数存在するので、中心の分裂、すなわち最終的に中心の消滅を意味する)。鑑賞者としての市民のためのアートである。とはいえ、それは鑑賞者に阿ることではない。作者、作品、鑑賞者を繋ぐ関係のなかで、鑑賞者を刺激して行動に導く努力が、アートに求められているのだ。
そうでなければ、第10話の福岡アジア美術トリエンナーレの紹介コーナーに登場する今「熱い」アジアのアーティストが、アジアの歴史的状況を強いリアリティをもって視覚化する作品は生まれないだろうし、彼らの創造の折角の努力も無駄になり忘れ去られてしまうだろう。これらの作品が、せめてもの慰めであるかのごとく、第11話の間に挿入されていた。ところが、このように第10話で少し挽回したと思ったら、それに続く第11話のトリを飾る松澤宥でとどめを刺された。松澤の「人類よ、消滅しよう」は、すべてを忘却の海に沈み込ませるブラックホールのようではなかったか。
だが、振り返ってみよう。フェイクの中心の背後に何も変わらない恐ろしい真実が蹲っている。それが、日本に歴史の終焉をもたらしたのではなく、停止したままの歴史を紡ぎだしている。歴史は忘却されたのではない。凍結した歴史を、我々が歴史の臨終と勘違いし、20世紀末のポストモダンに流行した「歴史の終焉」のグローバルな風潮に重ね合わせて、狡猾にすり替えてしまったのだ。
このような非歴史の歴史が、揶揄するかのようにわれわれを惑わしている。だが、惑わされようのない厳然たる資料は、いくらでもある。先述の大谷芳久コレクションが、それだ。新港ピアでは、第11話の片隅に、土田ヒトミの広島に投下された原爆の記憶の収集があった。それは、原発事故の後では、とくにじっくりと見られなければならない作品である。













さらには、前述の第10話のハァ・ユンチャンやチェン・ジエレンやキリ・ダレナのように、日本文化に特有の凄まじい忘却の力の嵐に抗して、忘れがたい作品を提示している者もいる。だからこそ、現在のアジアのアートは熱く燃え上がっているのだと胸を張って強弁したい。私たちにも、大谷芳久コレクションや土田ヒトミの広島のように、決して忘却の海に投げ捨てられない過去があるのだから(私は忘却をなんとしても押しとどめたいと言っているのではない。忘却はある場合は必要である。忘却を強いる権力や体制に対して抵抗することを望んでいるだけなのだ)。
「仮想のコミュニティ・アジア-黄金町バザール 2014」(8月1日~11月3日)
今回の黄金町バザールでは、若い日本人アーティストの健闘が光った。有望な4人のアーティストの作品を紹介しよう。彼らの作品に共通して感じるのは、端倪すべからざる〈蠢動〉である。








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青木真莉子









木村了子




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地主麻衣子



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吉濱翔
「スターリング・ルビー "BC Rips"」展(タカ・イシイギャラリー、9月7日~10月4日)
これは後出のトーマス・ルフについても言えることだが、ルビーのように無条件でスケールが大きいと感じられる作品が、日本に少ないのはどうしてだろうか?
細部にこだわる緻密な構成の表現は得意なのだが、出来上がった作品の全体から、ルビーやルフのようなスケールの大きさは感じられない。確かに、ルビーと比べると細密で丁寧な描き方をしている。だが、こじんまりとまとまり、しばしばそう評されるように装飾的だとか工芸的だと思われて、そのまま省みられることがない。
それで何が悪いのか。スケールの大きさといいダイナミックさといい、それらの現象にどれだけ意義があるというのか? きっちりと仕上がっている方が、文句なく綺麗ではないか。ならば、どちらが優秀かを決めるまでもない。単に美的価値観の違いなのだから。
だが、そう言い切ってしまってよいのか?




「Alexander Gronsky」展(Yuka Tsuruno Gallery、9月6日~10月25日)
トーマス・ルフの個展が行われているのと同じTOLOTのYuka Tsuruno Galleryでは、Alexander Gronskyの写真展が開催されていた。こちらは、ロシアの大地の大きさと、その上に形成された都市の郊外の奇妙な風景に漂う寂寥感に胸を打たれた。





ナジルン展「The Breath of Nasirun―伝統の変容」(ミズマアートギャラリー、9月10日~10月11日)
ナジルンが歴史的に評価されるのは、彼の画業が民俗画や宗教画から出発しているにせよ、暗い色調に表現される土着的なものをベースに、モダンの文法(厚いマチエールと抽象的形式)を押さえていることである。彼の作品からわれわれが学ぶことができるのは、グローバル(ナジルンの場合はモダンアート)とローカル(インドネシアの伝統的アート)のギャップを知り、ローカルをどうグローバルにつなげるかを真摯に探求したことではないだろうか。






「小川真生樹」展(Alainistheonlyone、9月18日~10月18日)
ん? 何もない? いや、よく見てみよう。ギャラリーのホワイトルームには何もない。従って、作品はない。だが、作品とは何か? もはや白い壁面に依存しない作品の形態があってもよいのではないか。それなら、すでにインスタレーションがあるではないか。だが、インスタレーションも、それを収容する空間を必要とする。それがクローズドであれオープンであれ。だが、この作品には展示スペースという特別な空間は必要ない(それは、展示スペースの裏のオフィスにまで、痕跡の作品が連続していることで証明される)。では、どうすれば表現が成立するのか? その答えは難しくない。表現しないことに、この作品の意義があるからだ。ということは、この作品から表現とは何かを問わなければならない。その答えは簡単に出ない。そこでアーティストに、なぜそこまで表現したくないのかと問うてみよう。 そこに、この作品の真骨頂がありそうだ。だが、まずは作品をじっくり鑑賞することから始めよう......。
スタッフの方は説明をしないように、とアーティストから指示を受けているとのこと。ホワイトルームの白さが際立つ。この地の空白の上に、表現の意味が展開されるとすれば、その意味を回避あるいは、少なくとも迂回(説明することを延期する)する意図(あくまでこちら側の推測の域を出ないが)があるのだろう。つまりコンセプトなき、あるいは差延されたコンセプト、あるいはコンセプトを実現する場としての白の地を避け=ギャラリーという制度を脱構築し、仮想のコンセプトとコンセプトの狭間にある沈黙に耳を傾けろとの暗黙のメッセージが発信されているのか。そうであるなら、言語による分節化によって生まれた穴を塞ぐ行為の意味が次第に見えてこよう。とりあえず結論として言えること。コンセプトなきコンセプチュアルアート。でなければ、コンセプトがあるかないか判明ではない曖昧なコンセプチュアルアート。







松下徹個展「Wreckage」(みんなのギャラリー、10月3日~10月13日)
「スケールの大きさ」と言えば、松下は旧作の円形の絵画を、フラクタル理論を援用して説明している。周知のように、フラクタル図形の次元は一次元以上(輪郭線の延長が無限)なので、絵画に描かれたひび割れのフラクタル空間は、作品の平面性を超越して拡張される。このようにして、彼の絵画は円形の物理的な限界を突破する想像力の慣性を蓄える。では、新作のステッチを用いて奇妙なパターンを反復する絵画はどうだろうか? 新作の絵画もまた円形を基本にしているので、円という理念的なフォルムのもつ完結性によって、スケールといった拡張性ではなく、収縮的なモーメンタムを帯びるのではないか。その上、ほぼシンメトリックに構成された模様はスタティックな印象を残す。
だが、実際はそうではない。放射状の模様が、旧作にも増して外向するモーメンタムを孕むのである。





「Thomas Ruff Photograms」展(Gallery Koyanagi in TOLOT heuristic SHINONOME、10月4日~11月15日)
スターリング・ルビーの欄でも述べたが、久々にじっくり観るトーマス・ルフの新作のフォトグラムに、スケールの大きさを感じた。そして、過去の作品には、被写体のイメージに凝集する存在の強度を。



以上、2014年制作のフォトグラム


福本健一郎 「Dear Friends」展(JIKKA、10月11日~10月26日)
福本の絵画であれ彫刻であれ、見ていると快楽が滲み出すような魅力を感じるのはなぜか? まさに美的快楽だが、カントが定義するような美的価値とは決定的に異なる。彼の技法は、一見稚拙でプリミティヴであり、作品のフォルムは、アウトサイダーアートのようにシンプルである。そのようなアートなら、世界にごまんとある。だから、福本は確信的にそれをシミュラークルの種として用いる。その効果として鑑賞者を魅了する爽やかさが、彼の作品にまといつく。巷で流行している可愛らしさではない。それはステレオタイプだから。タイプの模倣ではないプリミティヴのシミュラークルは、巧妙に微妙にモデルからずらされている。それが非類似の類似性である。福本は、そのスキルを自家薬籠中のものにしている。あとは、彼がそれを何に用いるかである。





(つづく)
ヨコハマ トリエンナーレ 2014(横浜美術館+新港ピア、8月1日〜11月3日)
「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」 。今回のトリエンナーレにつけられたこのタイトルがどう解釈されるにせよ、このように時代がかったタイトルは空振りに終わる運命ではないか。世界に中心がないことは、陽の目を見るよりも明らかだからだ。たとえ中心があるように振る舞ったとしても、それは空虚を隠すシミュラークルでしかない。だが、それを本物と取り違え、張りぼての玉座に祭り上げる人間がいる。それこそ、ポストモダンの右傾化の証拠である。
再度、確認しよう。世界に中心はない。あるように見えるとすれば、それはフェイクであり、そこにあるはずの忘却の海もフェイクである。ということは、世界の中心には決して忘れることのできない核(「器官なき身体」)があり、それが世界を支配している。忘却は、この真実を掩蔽する仮装のマントなのだ。
さて、このタイトルのトリエンナーレは、白(未生)の無の第1話から始まり、忘却(もう一つの白)の無の第11話で終わる一つのサイクルを描き出している。しかし、その間に入る作品の数が少ないので、二つの無の間のスペースに、無ではない冗長な空白があることに気づかされる。したがって、サイクル巡り(鑑賞)が充実感をもたらすことはない。確かに、第2話と第3話に登場するアーティストたちは素晴らしい。












以上、第2話 釜ヶ崎芸術大学の活動の産物と、その記録

エリック・ボードレール、The Ugly One、2013年



足立正生の原作(一部)
だが、第2話の釜ヶ崎芸術大学と、第3話のタリン・サイモンとエリック・ボードレール(彼の映像作品は傑作。足立正生の原作とナレーション、注目のレバノン人アーティスト、ラビー・ムルーエが主役となれば、面白くないはずがない)の二人を除けば、



ドラ・ガルシア、華氏451度(1957年版)、2002年




マイケル・ラコウィッツ、どんな塵がたちあがるだろうか?、2012年
第3話のドラ・ガルシアとマイケル・ラコウィッツの展示作は、彼らの実力を十分に示しているものとは到底言いがたい。









第3話 大谷芳久コレクション
また、大谷芳久の戦時中の興味深い資料も、深く記憶に刻むにはもっと数多く陳列されてよいと思う。
ここまでが、二つの会場の一つ横浜美術館で鑑賞される展示の半分で、後半のスペースは、アーティストがキュレーターを務めたことの不可避の代償なのか、アーティスト神話の復活(逆のアーティスト否定の第5話Temporary Foundationの巨大インスタレーションもあるが、否定は肯定の裏返しであり、いずれアーティストを復活させることに帰着する)を目論むかのようなセクションで、まったく手応えがなかった(見っけものは、アリーナ・シャポツニコフのみ)。
1960~70年代、ロラン・バルトによって「作者の死」が宣言されたが、80年以降ポストモダンに入ると、またぞろ言い訳もなく、アーティストがアートの世界を大手を振って歩くようになった。そして今、遂にアーティストを神格化する物語が臆面もなく語られることになるのだろうか? 曰く、シシューポスとしての力業(第4話)、無邪気で自分勝手な子供の遊戯(第6話)という具合に。だが、シシューポスの働きに人類の救いを託す者はいないし、結局大人に依存することになる我儘な子供の遊びに付き合う暇な人間ももはやいないのではないか。
「作者からテクストへ」とバルトはかつて語ったが、では時代を経た現在、安易にその逆を遡行すればよいのか? そうではあるまい。テクストから作品を復活させ、その作者を神格化するーー横浜美術館の中心にあるマイケル・ランディの巨大な容器は、アーティストの肥大化した自我の入れ物であり、いかに失敗作を放り込むごみ箱だとしても、彼らの名声を高めるための自己満足の具でしかない。そうであれば、このごみ箱をひっくり返さなければなるまい。つまり、鑑賞者はこの容器のなかに入って外を眺めることである。そうすれば箱の外の光景は、どのように見えるのだろうか?ーーのではなく、テクストから鑑賞者へとアートの中心を移動させなければならない(鑑賞者に中心を移動させることは、鑑賞者が潜在的に無数存在するので、中心の分裂、すなわち最終的に中心の消滅を意味する)。鑑賞者としての市民のためのアートである。とはいえ、それは鑑賞者に阿ることではない。作者、作品、鑑賞者を繋ぐ関係のなかで、鑑賞者を刺激して行動に導く努力が、アートに求められているのだ。
そうでなければ、第10話の福岡アジア美術トリエンナーレの紹介コーナーに登場する今「熱い」アジアのアーティストが、アジアの歴史的状況を強いリアリティをもって視覚化する作品は生まれないだろうし、彼らの創造の折角の努力も無駄になり忘れ去られてしまうだろう。これらの作品が、せめてもの慰めであるかのごとく、第11話の間に挿入されていた。ところが、このように第10話で少し挽回したと思ったら、それに続く第11話のトリを飾る松澤宥でとどめを刺された。松澤の「人類よ、消滅しよう」は、すべてを忘却の海に沈み込ませるブラックホールのようではなかったか。
だが、振り返ってみよう。フェイクの中心の背後に何も変わらない恐ろしい真実が蹲っている。それが、日本に歴史の終焉をもたらしたのではなく、停止したままの歴史を紡ぎだしている。歴史は忘却されたのではない。凍結した歴史を、我々が歴史の臨終と勘違いし、20世紀末のポストモダンに流行した「歴史の終焉」のグローバルな風潮に重ね合わせて、狡猾にすり替えてしまったのだ。
このような非歴史の歴史が、揶揄するかのようにわれわれを惑わしている。だが、惑わされようのない厳然たる資料は、いくらでもある。先述の大谷芳久コレクションが、それだ。新港ピアでは、第11話の片隅に、土田ヒトミの広島に投下された原爆の記憶の収集があった。それは、原発事故の後では、とくにじっくりと見られなければならない作品である。













さらには、前述の第10話のハァ・ユンチャンやチェン・ジエレンやキリ・ダレナのように、日本文化に特有の凄まじい忘却の力の嵐に抗して、忘れがたい作品を提示している者もいる。だからこそ、現在のアジアのアートは熱く燃え上がっているのだと胸を張って強弁したい。私たちにも、大谷芳久コレクションや土田ヒトミの広島のように、決して忘却の海に投げ捨てられない過去があるのだから(私は忘却をなんとしても押しとどめたいと言っているのではない。忘却はある場合は必要である。忘却を強いる権力や体制に対して抵抗することを望んでいるだけなのだ)。
「仮想のコミュニティ・アジア-黄金町バザール 2014」(8月1日~11月3日)
今回の黄金町バザールでは、若い日本人アーティストの健闘が光った。有望な4人のアーティストの作品を紹介しよう。彼らの作品に共通して感じるのは、端倪すべからざる〈蠢動〉である。








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「スターリング・ルビー "BC Rips"」展(タカ・イシイギャラリー、9月7日~10月4日)
これは後出のトーマス・ルフについても言えることだが、ルビーのように無条件でスケールが大きいと感じられる作品が、日本に少ないのはどうしてだろうか?
細部にこだわる緻密な構成の表現は得意なのだが、出来上がった作品の全体から、ルビーやルフのようなスケールの大きさは感じられない。確かに、ルビーと比べると細密で丁寧な描き方をしている。だが、こじんまりとまとまり、しばしばそう評されるように装飾的だとか工芸的だと思われて、そのまま省みられることがない。
それで何が悪いのか。スケールの大きさといいダイナミックさといい、それらの現象にどれだけ意義があるというのか? きっちりと仕上がっている方が、文句なく綺麗ではないか。ならば、どちらが優秀かを決めるまでもない。単に美的価値観の違いなのだから。
だが、そう言い切ってしまってよいのか?




「Alexander Gronsky」展(Yuka Tsuruno Gallery、9月6日~10月25日)
トーマス・ルフの個展が行われているのと同じTOLOTのYuka Tsuruno Galleryでは、Alexander Gronskyの写真展が開催されていた。こちらは、ロシアの大地の大きさと、その上に形成された都市の郊外の奇妙な風景に漂う寂寥感に胸を打たれた。





ナジルン展「The Breath of Nasirun―伝統の変容」(ミズマアートギャラリー、9月10日~10月11日)
ナジルンが歴史的に評価されるのは、彼の画業が民俗画や宗教画から出発しているにせよ、暗い色調に表現される土着的なものをベースに、モダンの文法(厚いマチエールと抽象的形式)を押さえていることである。彼の作品からわれわれが学ぶことができるのは、グローバル(ナジルンの場合はモダンアート)とローカル(インドネシアの伝統的アート)のギャップを知り、ローカルをどうグローバルにつなげるかを真摯に探求したことではないだろうか。






「小川真生樹」展(Alainistheonlyone、9月18日~10月18日)
ん? 何もない? いや、よく見てみよう。ギャラリーのホワイトルームには何もない。従って、作品はない。だが、作品とは何か? もはや白い壁面に依存しない作品の形態があってもよいのではないか。それなら、すでにインスタレーションがあるではないか。だが、インスタレーションも、それを収容する空間を必要とする。それがクローズドであれオープンであれ。だが、この作品には展示スペースという特別な空間は必要ない(それは、展示スペースの裏のオフィスにまで、痕跡の作品が連続していることで証明される)。では、どうすれば表現が成立するのか? その答えは難しくない。表現しないことに、この作品の意義があるからだ。ということは、この作品から表現とは何かを問わなければならない。その答えは簡単に出ない。そこでアーティストに、なぜそこまで表現したくないのかと問うてみよう。 そこに、この作品の真骨頂がありそうだ。だが、まずは作品をじっくり鑑賞することから始めよう......。
スタッフの方は説明をしないように、とアーティストから指示を受けているとのこと。ホワイトルームの白さが際立つ。この地の空白の上に、表現の意味が展開されるとすれば、その意味を回避あるいは、少なくとも迂回(説明することを延期する)する意図(あくまでこちら側の推測の域を出ないが)があるのだろう。つまりコンセプトなき、あるいは差延されたコンセプト、あるいはコンセプトを実現する場としての白の地を避け=ギャラリーという制度を脱構築し、仮想のコンセプトとコンセプトの狭間にある沈黙に耳を傾けろとの暗黙のメッセージが発信されているのか。そうであるなら、言語による分節化によって生まれた穴を塞ぐ行為の意味が次第に見えてこよう。とりあえず結論として言えること。コンセプトなきコンセプチュアルアート。でなければ、コンセプトがあるかないか判明ではない曖昧なコンセプチュアルアート。







松下徹個展「Wreckage」(みんなのギャラリー、10月3日~10月13日)
「スケールの大きさ」と言えば、松下は旧作の円形の絵画を、フラクタル理論を援用して説明している。周知のように、フラクタル図形の次元は一次元以上(輪郭線の延長が無限)なので、絵画に描かれたひび割れのフラクタル空間は、作品の平面性を超越して拡張される。このようにして、彼の絵画は円形の物理的な限界を突破する想像力の慣性を蓄える。では、新作のステッチを用いて奇妙なパターンを反復する絵画はどうだろうか? 新作の絵画もまた円形を基本にしているので、円という理念的なフォルムのもつ完結性によって、スケールといった拡張性ではなく、収縮的なモーメンタムを帯びるのではないか。その上、ほぼシンメトリックに構成された模様はスタティックな印象を残す。
だが、実際はそうではない。放射状の模様が、旧作にも増して外向するモーメンタムを孕むのである。





「Thomas Ruff Photograms」展(Gallery Koyanagi in TOLOT heuristic SHINONOME、10月4日~11月15日)
スターリング・ルビーの欄でも述べたが、久々にじっくり観るトーマス・ルフの新作のフォトグラムに、スケールの大きさを感じた。そして、過去の作品には、被写体のイメージに凝集する存在の強度を。



以上、2014年制作のフォトグラム


福本健一郎 「Dear Friends」展(JIKKA、10月11日~10月26日)
福本の絵画であれ彫刻であれ、見ていると快楽が滲み出すような魅力を感じるのはなぜか? まさに美的快楽だが、カントが定義するような美的価値とは決定的に異なる。彼の技法は、一見稚拙でプリミティヴであり、作品のフォルムは、アウトサイダーアートのようにシンプルである。そのようなアートなら、世界にごまんとある。だから、福本は確信的にそれをシミュラークルの種として用いる。その効果として鑑賞者を魅了する爽やかさが、彼の作品にまといつく。巷で流行している可愛らしさではない。それはステレオタイプだから。タイプの模倣ではないプリミティヴのシミュラークルは、巧妙に微妙にモデルからずらされている。それが非類似の類似性である。福本は、そのスキルを自家薬籠中のものにしている。あとは、彼がそれを何に用いるかである。





(つづく)
・尾道
AIR Onomichi(尾道)
今、大林宣彦監督の尾道三部作で知られる広島県の尾道が、映画にあやかる観光ばかりでなく、アートで盛り上がっていることをご存知だろうか。「AIR Onomichi 」は、最近地方で流行している「町おこし」型の一時的な地域称賛アートイベントとは違って、アーティスト主導(とくに代表の小野環氏と三上清仁氏の力が大きい)の地道な活動(内外のアーティストを招くアーティスト・イン・レジデンスで、過疎化に伴って生まれる空き家を用いた作品を制作)である。そのプロジェクトの一つ、レジデンス・アーティストの横谷奈歩の作品を紹介しよう。









テレビの脚本家で有名な高橋玄洋が育った住居を舞台に、今は使われていない高橋氏の父母(父は、小津安二郎の「東京物語」の主人公のモデル)と兄弟が生活した自宅とアーティストの濃密なコミュニケーションによる、家族の歴史の痕跡を再活性化して想像力を掻き立てる美しい作品。
「十字路―CROSSROAD」展 & 「100のアイデア、あしたの島。―アートはより良い社会のために何ができるのか?―」展(ART BASE 百島、9月13日~10月26日)
尾道の対岸にいくつかの島々が浮かんでいる。これらの島々も、しまなみ海道と呼ばれて観光地なっているが、その島々の一つの百島で、「ART BASE 百島」(島内の元小学校を改装したアートセンター)主催の「十字路―CROSSROAD」と「100のアイデア、あしたの島。」とタイトルされた企画展が行われていた。
本会場のアートセンターだけでなく、島内の場所や建物を用いて行われた二つの展覧会から、鑑賞できたかぎりでいくつかの作品を紹介しよう。
「100のアイデア、あしたの島。―アートはより良い社会のために何ができるのか?―」展より


ジェームス・ジャック



ウナ・ノックス



ラウル・バルチ
「十字路―CROSSROAD」展より



柳幸典 島内にある元映画館を会場にした作品


ART BASE 百島



柳幸典

展覧会ディレクターおよび出展アーティストの柳幸典(右)とキュレーターの古堅太郎(左)



石内都

原口典之

ブルース・コナー

「十字路―CROSSROAD」展は、本土の尾道港脇にある倉庫を使用して同時開催。

原口典之




柳幸典
以上のように、素晴らしいロケーションとスケールの大きい展覧会が開かれている。このプロジェクトが今後も継続され、さらに拡充されて、尾道に来る多くの観光客が訪れる展覧会となることを期待したい。

そして、尾道の夕景色
・福岡
今岡昌子写真展「そしてトポフィリア」(ギャラリーおいし、10月28日~11月2日)
今岡昌子の写真は、想像の世界だがリアルである。だが、現実の人物や事物や土地の風景を撮影しているのだから、想像などではなくストレートにリアルではないか? しかし彼女の撮る風景は、一つひとつ遠近感や色調や明るさや透明度が異なるので、とても同じ現実とは思えない。とはいえ、各々のイメージはリアルに感じられる。リアルな想像というわけではない。言ってみれば、白昼夢のように現実に裏打ちされた想像の世界である。その風景が、カメラによって切り取られる。そのとき、イメージは現実の彼方ではなく、その手前にある。
彼女は、このような写真を撮影するようになる以前に、アジアや被災地のドキュメンタリー写真を撮影してきたと聞いた。その経験が、当然現在の写真に引き継がれているだろう。彼女がそれらの海外で得た強烈な記憶は、「そしてトポフィリア」と題された個展の展示作品に、深い影響を及ぼしているに違いない。だからといって、彼女は、異文化のエキゾティックであったりシビアであったりする現実を、現在の世界に重ね合わせることはない。そのようにしてできたイメージは、二つの現実の対比によって表面的でセンセーショナルなものになってしまうだろうから。
そうではなく、海外の風景と連続して、被写体の人間や物質や自然が存在することの厳粛さが、写真に刻み込まれるのだ。それが、彼女が撮影する九州の様々な風景から浮かび上がる。そのイメージは現実だが想像の世界である。言い換えれば、現実か虚構かではなく、したがってそれらの混淆ではなく、その間にあって現実でも虚構でもない。それは、彼女が愛する「九州」という存在から立ち昇るイメージなのである。このようなイメージのあり方を、私は“imaginary realism”(リアルなものに接近するのに、想像力を用いる)と呼んでみたい。









AIR Onomichi(尾道)
今、大林宣彦監督の尾道三部作で知られる広島県の尾道が、映画にあやかる観光ばかりでなく、アートで盛り上がっていることをご存知だろうか。「AIR Onomichi 」は、最近地方で流行している「町おこし」型の一時的な地域称賛アートイベントとは違って、アーティスト主導(とくに代表の小野環氏と三上清仁氏の力が大きい)の地道な活動(内外のアーティストを招くアーティスト・イン・レジデンスで、過疎化に伴って生まれる空き家を用いた作品を制作)である。そのプロジェクトの一つ、レジデンス・アーティストの横谷奈歩の作品を紹介しよう。









テレビの脚本家で有名な高橋玄洋が育った住居を舞台に、今は使われていない高橋氏の父母(父は、小津安二郎の「東京物語」の主人公のモデル)と兄弟が生活した自宅とアーティストの濃密なコミュニケーションによる、家族の歴史の痕跡を再活性化して想像力を掻き立てる美しい作品。
「十字路―CROSSROAD」展 & 「100のアイデア、あしたの島。―アートはより良い社会のために何ができるのか?―」展(ART BASE 百島、9月13日~10月26日)
尾道の対岸にいくつかの島々が浮かんでいる。これらの島々も、しまなみ海道と呼ばれて観光地なっているが、その島々の一つの百島で、「ART BASE 百島」(島内の元小学校を改装したアートセンター)主催の「十字路―CROSSROAD」と「100のアイデア、あしたの島。」とタイトルされた企画展が行われていた。
本会場のアートセンターだけでなく、島内の場所や建物を用いて行われた二つの展覧会から、鑑賞できたかぎりでいくつかの作品を紹介しよう。
「100のアイデア、あしたの島。―アートはより良い社会のために何ができるのか?―」展より


ジェームス・ジャック



ウナ・ノックス



ラウル・バルチ
「十字路―CROSSROAD」展より



柳幸典 島内にある元映画館を会場にした作品


ART BASE 百島



柳幸典

展覧会ディレクターおよび出展アーティストの柳幸典(右)とキュレーターの古堅太郎(左)



石内都

原口典之

ブルース・コナー

「十字路―CROSSROAD」展は、本土の尾道港脇にある倉庫を使用して同時開催。

原口典之




柳幸典
以上のように、素晴らしいロケーションとスケールの大きい展覧会が開かれている。このプロジェクトが今後も継続され、さらに拡充されて、尾道に来る多くの観光客が訪れる展覧会となることを期待したい。

そして、尾道の夕景色
・福岡
今岡昌子写真展「そしてトポフィリア」(ギャラリーおいし、10月28日~11月2日)
今岡昌子の写真は、想像の世界だがリアルである。だが、現実の人物や事物や土地の風景を撮影しているのだから、想像などではなくストレートにリアルではないか? しかし彼女の撮る風景は、一つひとつ遠近感や色調や明るさや透明度が異なるので、とても同じ現実とは思えない。とはいえ、各々のイメージはリアルに感じられる。リアルな想像というわけではない。言ってみれば、白昼夢のように現実に裏打ちされた想像の世界である。その風景が、カメラによって切り取られる。そのとき、イメージは現実の彼方ではなく、その手前にある。
彼女は、このような写真を撮影するようになる以前に、アジアや被災地のドキュメンタリー写真を撮影してきたと聞いた。その経験が、当然現在の写真に引き継がれているだろう。彼女がそれらの海外で得た強烈な記憶は、「そしてトポフィリア」と題された個展の展示作品に、深い影響を及ぼしているに違いない。だからといって、彼女は、異文化のエキゾティックであったりシビアであったりする現実を、現在の世界に重ね合わせることはない。そのようにしてできたイメージは、二つの現実の対比によって表面的でセンセーショナルなものになってしまうだろうから。
そうではなく、海外の風景と連続して、被写体の人間や物質や自然が存在することの厳粛さが、写真に刻み込まれるのだ。それが、彼女が撮影する九州の様々な風景から浮かび上がる。そのイメージは現実だが想像の世界である。言い換えれば、現実か虚構かではなく、したがってそれらの混淆ではなく、その間にあって現実でも虚構でもない。それは、彼女が愛する「九州」という存在から立ち昇るイメージなのである。このようなイメージのあり方を、私は“imaginary realism”(リアルなものに接近するのに、想像力を用いる)と呼んでみたい。








