展覧会へのコメント(9月)
[光州](韓国)
Spiral Pavilion(Gwangju Biennale、9月5日~11月9日)


上掲のGwangju BiennaleのSpiral Pavilionで行われていたのが、AA Bronsonと彼の仲間のコラボレーションによる展覧会。タイトルは、"House of Shame"。本来なら当ブログマガジンで連載中のBiennale Storyの枠内でレポートすべきだが、この展示のパートのみを取り上げても十分意味があると思うので、ゲイ・ワールド炸裂の圧倒的な内容を写真で示したい。

AA Bronson作品










以上、Spiral Pavilion1階の展示










以上、2階の展示









































以上、3階の展示
「Sweet Dew Since 1980」展(光州市立美術館、8月8日~11月8日)

すでにfbで紹介したように、本企画展は、検閲で話題となったSungdam Hongの絵画だけでなく、他にも政治的に興味深い作品があったので、それらを提示したい。
まず、検閲に毅然とした反対の意を表明した作品から。






Sungmin Hong作品





大浦信行作品

Sondeok Kim作品

Sondeok Kim作品

Deokkyeong Kang作品
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House of Sharing作品。以上の4点は、従軍慰安婦を描いた素朴な挿絵風の絵画と、それを基に制作されたアニメ―ション。
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Heung-Soon Im作品。朝鮮戦争直後に済州島で虐殺された住民を調査して制作されたドキュメンタリー・ヴィデオ。




Seahyun Lee作品




比嘉豊光の写真作品。1970年代に沖縄で行われた学生・労働者の闘争の記録。







Anna Jermolaewaのインスタレーションとヴィデオ。ご多分にもれずデモの規制が厳しくなっているロシアで、デモをレゴに肩代わりさせるユーモアある作品。




様々な形で都市に介入し、異議申し立ての意志を表明するIgor Grubicのパフォーマンスとその痕跡。



Num-jin Lin作品。伝統的な仏画(本展には、古い本物の仏画も飾られている)の様式を使い、仏の見守るなか現実世界の民衆の闘いと、それを弾圧する警官隊の姿を描いている。
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Amar Kanwarのヴィデオ・インスタレーション。彼にしては珍しくインド以外の国(ミャンマー)を題材にし、ミャンマーの民主化運動を取り上げた作品。







Kathe Kollwitz作品。この展覧会場で彼女の作品を鑑賞すると、彼女の苦悩と悲嘆がより深い意味を帯びて立ち現れてくることに気づいた。
最後に、本展覧会に展示されなかったSungmin Hongの作品が、同じ美術館の別の企画展に出品されていたので、それを紹介したい。
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これらの連作版画の主題は、1980年代の市民・学生の民主化運動である。そのさなかに悲惨な光州事件が出来する。
「The Mirror and Monitor of Democracy in Asia」展(光州市立美術館、8月22日~9月28日)

光州市立美術館の別館で開催されているのが、Asian Arts Space Networkが主催するアジアの若手アーティストの作品を集めたグループ展である。日本からは開発好明とChim↑Pomが招待されているこの展覧会は、アジアの民主主義の在り様をテーマにしているが、暴力的な表現が目立った。民主主義と暴力は、互いに相容れない概念だが、民主主義の存在と不在が引き起こす暴力(穏健なものから残酷なものまで)があり、もっとも残酷なものを紹介すれば(かなり過激なので、刺激の強いものが苦手な方はスキップしてください)、
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He Yunchang, One Meter Democracy。民主主義のルールに則れば、このような残虐な行為も許容されるという実例。
また、台湾で最近勃発した学生の政治運動の舞台を美しく映し出した感動的な作品、
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Yuan Goang-Ming, The 561st Hour of Occupation
そして、民主主義の危機(資本主義との齟齬による)のなかで、賢くサヴァイヴァルするインドネシアの若者の姿を描いた映像があった。
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Angga Cipta作品
[東京](日本)
「ジョージェ・オズボルト Lost in Translation」展(Taro Nasu Gallery、9月6日~10月4日)
1967年、旧ユーゴスラビアで生まれたジョージェ・オズボルトは、過去に美術史から様々な絵画を引用し、とくに色彩を用いてデフォルメしてきたが、今回の個展は、オリジナルのアフリカの仮面の色をシンプルに変えることで、魅力的な作品に仕上げた。これがオリジナルのアフリカの仮面をずらすことになり、シミュラークルが生まれる。その効果は、イメージが宙に浮くことだ。オズボルトが、それをストレートに表現していることは見事と言うほかない。
(後半につづく)
[光州](韓国)
Spiral Pavilion(Gwangju Biennale、9月5日~11月9日)


上掲のGwangju BiennaleのSpiral Pavilionで行われていたのが、AA Bronsonと彼の仲間のコラボレーションによる展覧会。タイトルは、"House of Shame"。本来なら当ブログマガジンで連載中のBiennale Storyの枠内でレポートすべきだが、この展示のパートのみを取り上げても十分意味があると思うので、ゲイ・ワールド炸裂の圧倒的な内容を写真で示したい。

AA Bronson作品










以上、Spiral Pavilion1階の展示










以上、2階の展示









































以上、3階の展示
「Sweet Dew Since 1980」展(光州市立美術館、8月8日~11月8日)

すでにfbで紹介したように、本企画展は、検閲で話題となったSungdam Hongの絵画だけでなく、他にも政治的に興味深い作品があったので、それらを提示したい。
まず、検閲に毅然とした反対の意を表明した作品から。






Sungmin Hong作品





大浦信行作品

Sondeok Kim作品

Sondeok Kim作品

Deokkyeong Kang作品
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House of Sharing作品。以上の4点は、従軍慰安婦を描いた素朴な挿絵風の絵画と、それを基に制作されたアニメ―ション。
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Heung-Soon Im作品。朝鮮戦争直後に済州島で虐殺された住民を調査して制作されたドキュメンタリー・ヴィデオ。




Seahyun Lee作品




比嘉豊光の写真作品。1970年代に沖縄で行われた学生・労働者の闘争の記録。







Anna Jermolaewaのインスタレーションとヴィデオ。ご多分にもれずデモの規制が厳しくなっているロシアで、デモをレゴに肩代わりさせるユーモアある作品。




様々な形で都市に介入し、異議申し立ての意志を表明するIgor Grubicのパフォーマンスとその痕跡。



Num-jin Lin作品。伝統的な仏画(本展には、古い本物の仏画も飾られている)の様式を使い、仏の見守るなか現実世界の民衆の闘いと、それを弾圧する警官隊の姿を描いている。
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Amar Kanwarのヴィデオ・インスタレーション。彼にしては珍しくインド以外の国(ミャンマー)を題材にし、ミャンマーの民主化運動を取り上げた作品。







Kathe Kollwitz作品。この展覧会場で彼女の作品を鑑賞すると、彼女の苦悩と悲嘆がより深い意味を帯びて立ち現れてくることに気づいた。
最後に、本展覧会に展示されなかったSungmin Hongの作品が、同じ美術館の別の企画展に出品されていたので、それを紹介したい。
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これらの連作版画の主題は、1980年代の市民・学生の民主化運動である。そのさなかに悲惨な光州事件が出来する。
「The Mirror and Monitor of Democracy in Asia」展(光州市立美術館、8月22日~9月28日)

光州市立美術館の別館で開催されているのが、Asian Arts Space Networkが主催するアジアの若手アーティストの作品を集めたグループ展である。日本からは開発好明とChim↑Pomが招待されているこの展覧会は、アジアの民主主義の在り様をテーマにしているが、暴力的な表現が目立った。民主主義と暴力は、互いに相容れない概念だが、民主主義の存在と不在が引き起こす暴力(穏健なものから残酷なものまで)があり、もっとも残酷なものを紹介すれば(かなり過激なので、刺激の強いものが苦手な方はスキップしてください)、
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He Yunchang, One Meter Democracy。民主主義のルールに則れば、このような残虐な行為も許容されるという実例。
また、台湾で最近勃発した学生の政治運動の舞台を美しく映し出した感動的な作品、
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Yuan Goang-Ming, The 561st Hour of Occupation
そして、民主主義の危機(資本主義との齟齬による)のなかで、賢くサヴァイヴァルするインドネシアの若者の姿を描いた映像があった。
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Angga Cipta作品
[東京](日本)
「ジョージェ・オズボルト Lost in Translation」展(Taro Nasu Gallery、9月6日~10月4日)
1967年、旧ユーゴスラビアで生まれたジョージェ・オズボルトは、過去に美術史から様々な絵画を引用し、とくに色彩を用いてデフォルメしてきたが、今回の個展は、オリジナルのアフリカの仮面の色をシンプルに変えることで、魅力的な作品に仕上げた。これがオリジナルのアフリカの仮面をずらすことになり、シミュラークルが生まれる。その効果は、イメージが宙に浮くことだ。オズボルトが、それをストレートに表現していることは見事と言うほかない。
(後半につづく)
[台北](台湾)
国立台北芸術大学付属の関渡美術館では、4つの展覧会が開催されていたが、そのうちの2つを紹介しよう。

関渡美術館

「Post-Mouvements Nights of Cafe Muller」展(関渡美術館、7月25日~9月14日)
この展覧会には、日本を含めアジア一円からアーティストが招待されているが、ベトナム人アーティストの作品が目についた。台湾で紹介されることの少ないベトナム人アーティストの作品が見られるようになったのは、東南アジアで現代アート熱が高まっていることに起因しているが、それだけでなく台湾のアート界がアジアの周縁のアートに関心を向け始めている証拠でもある。



参加ベトナム人アーティストの一人、Tran Thi Dao作品。
タイトルにMouvement(運動)とあるように、展示会場では、台湾の立法院を占拠した学生のひまわり運動の後(Post)で、その実践を途切れさせず発展させることを、アーティストの立場から考えるイヴェントを行っていた。



「Rooms to Meet the Gaze」展(関渡美術館、7月25日~9月14日)
写真と絵画をメディアとする二人のアーティスト(Chen Ming-TsungとLee Min-Jung)の展覧会で、彼らの被写体や題材になるのが、台湾のアーティストであったり普通の人々であったりと、普段あまり取り上げられることのないモチーフに焦点を当てている。そのため、鑑賞者にアーティストと普通の人々に対して親密感を与える展覧会となった。

左、写真家のChen Ming-Tsung、右、本展キュレーターのChang Li Hao。




Chen Ming-Tsung写真




Lee Min-Jungの肖像画(現在は、fbを使ってモデルになる人を募集しているという)
「郊遊 Tsai Ming Liang」個展(北師美術館、8月29日~11月9日)
映画監督で有名なTsai Ming Liangが、近年アート作品を制作していることはよく知られている。その彼の個展が、国立台北教育大学の北師美術館で行われていた。この個展は、Tsaiが2013年のヴェネツィア映画祭で審査委員大賞を獲った『郊遊 ピクニック』(ホームレスとなった親子の放浪物語)のスクリーニングを中心に、それから派生した映像やインスタレーションで構成されている。


來美術館


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[ソウル](韓国)
「the choi. jeong hwa natural colour, multiple flower show」(Cultural Station Seoul 284、9月4日~10月19日)
前出の光州ビエンナーレのSpiral Pavilionに匹敵する圧倒的な展覧会だったのが、韓国の首都ソウルの旧ソウル駅庁舎を改装して作られたCultural Station Seoul 284で開催されたChoi Jeong-hwaの大個展である。このギャラリーは、近代的な新ソウル駅に隣接してあり、東京駅と同じようにギャラリーとして使用されているが、後者がその一部のみを利用しているのに対し、前者は丸ごと駅舎一棟がギャラリーのスペースに当てられ、その規模の大きさに驚く。
そこでChoi Jeong-hwaは、以前から用いてきた彼独特の素材である極彩色(でないものもあるが)の日用品、装飾品、おもちゃ、廃棄物などを集めて、巨大なアートの殿堂を創出した(本ブログでは、会場の1階部分のみを紹介)。

会場前の広場に建てられたプラスチック製のざるの柱列。この近辺は、ホームレスが多いことで知られる。



Cultural Station Seoul 284






展示作のタイトルには、必ずflowerの単語がついている。





















The Art of Dansaekhwa(Kukje Gallery、8月28日~10月19日)
ソウルの大手ギャラリー、Kukjeで開催されていたのは、1970年代韓国のアートシーンに現れたDansaekhwaの作品の展覧会だった。その初期にリ・ウーファンが属していたこの運動は、韓国内では主流の表現に対するカウンターとして捉えられているが、現在から振り返れば、日本の同時期のもの派(まさに日本に移住したウーファンが先導した)と同様、当時のモダニズムの表現の最先端であったことが確認できる。そうであれば、現在のもの派の国際的な名声に続いて、Dansaekhwaの作品が国際的に評価されるようになるのは、時間の問題だろう。本展に含まれるアーティストは、この運動のオリジナルメンバーの7名だが、そのなかからもっとも印象に残ったHa Chong-Hyunの作品を紹介したい。彼の絵画は、絵具のマチエールの注意深く丁寧な扱いが、画面に緊張感ある静寂をもたらしているという点で、他にも増してクオリティが高いと思う。



絵具が削り取られているように見える表面が、画面から鑑賞者の視線を遠ざけるのではなく、削除された空隙に惹きつける。


上の2点は、カンヴァスの裏から濾し出されたように見える絵具のマチエールの細かい粒々が、爽やかなリズムを刻んでいる。
[札幌](日本)
札幌国際芸術祭2014(札幌市内の複数の会場、7月19日~9月28日)
この第1回大規模国際展(トリエンナーレ形式)を一口で語ることができないのは当然だが、あえてまとめて構造化すれば、柱となる4つの作品の間に、他の諸作品が集められて配置された展覧会と言えるのではないか。その4本柱とは、砂澤ビッキ、島袋道浩、山川冬樹、暮らしかた冒険家 札幌の家の作品である。4本の柱が象徴する、今回の展覧会のテーマである「都市と自然」に関連する意味は、砂澤が「抵抗」、島袋が「衝突」、山川が「接続」、暮らしかた冒険家が「リフォーム(改造)」である。それら柱の間に時間軸が垂直に走り、過去に向かうベクトルが近代を反省する作品(主に、道立近代美術館に展示)に、未来に延びるベクトルが近未来を予測する作品(主に、札幌駅前地下歩行空間に展示)に結晶している。

砂澤ビッキ

島袋道浩


山川冬樹



暮らしかた冒険家 札幌の家
問題は、私が恣意的に整理し直したこの展覧会の構造から、都市と自然の新たな関係が生まれるかということである。その成否の鍵は、近代の主客二元論的世界をどう克服するかにかかっている。だが、展覧会の時間軸上にある近代の反省(過去)は、近代の二元論を前提するのであれば、どこまでもそれを引きずり、克服に向けての実り多い結論を導くことができないのではないか?
それが、二元論を超克する困難を確認するに止まるという重苦しさを反省系の作品から感じさせるだけでなく、ポストモダン系の作品にさらに浮ついた雰囲気をまとわせたように思う(したがって、最終的に近代の真正面からの反省は、せいぜい反近代か前近代に陥るのがおちである)。近代の回顧は、近代を乗り越えた地平からなされなければならないということだ。
また、近代以降を展望する作品も、近代の未解決な障害(主客二元論)を内包したままでは、それが描き出す未来は、主体か客体に収斂するディストピアにならざるを得ないのではないか。
国立台北芸術大学付属の関渡美術館では、4つの展覧会が開催されていたが、そのうちの2つを紹介しよう。

関渡美術館

「Post-Mouvements Nights of Cafe Muller」展(関渡美術館、7月25日~9月14日)
この展覧会には、日本を含めアジア一円からアーティストが招待されているが、ベトナム人アーティストの作品が目についた。台湾で紹介されることの少ないベトナム人アーティストの作品が見られるようになったのは、東南アジアで現代アート熱が高まっていることに起因しているが、それだけでなく台湾のアート界がアジアの周縁のアートに関心を向け始めている証拠でもある。



参加ベトナム人アーティストの一人、Tran Thi Dao作品。
タイトルにMouvement(運動)とあるように、展示会場では、台湾の立法院を占拠した学生のひまわり運動の後(Post)で、その実践を途切れさせず発展させることを、アーティストの立場から考えるイヴェントを行っていた。



「Rooms to Meet the Gaze」展(関渡美術館、7月25日~9月14日)
写真と絵画をメディアとする二人のアーティスト(Chen Ming-TsungとLee Min-Jung)の展覧会で、彼らの被写体や題材になるのが、台湾のアーティストであったり普通の人々であったりと、普段あまり取り上げられることのないモチーフに焦点を当てている。そのため、鑑賞者にアーティストと普通の人々に対して親密感を与える展覧会となった。

左、写真家のChen Ming-Tsung、右、本展キュレーターのChang Li Hao。




Chen Ming-Tsung写真




Lee Min-Jungの肖像画(現在は、fbを使ってモデルになる人を募集しているという)
「郊遊 Tsai Ming Liang」個展(北師美術館、8月29日~11月9日)
映画監督で有名なTsai Ming Liangが、近年アート作品を制作していることはよく知られている。その彼の個展が、国立台北教育大学の北師美術館で行われていた。この個展は、Tsaiが2013年のヴェネツィア映画祭で審査委員大賞を獲った『郊遊 ピクニック』(ホームレスとなった親子の放浪物語)のスクリーニングを中心に、それから派生した映像やインスタレーションで構成されている。


來美術館


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[ソウル](韓国)
「the choi. jeong hwa natural colour, multiple flower show」(Cultural Station Seoul 284、9月4日~10月19日)
前出の光州ビエンナーレのSpiral Pavilionに匹敵する圧倒的な展覧会だったのが、韓国の首都ソウルの旧ソウル駅庁舎を改装して作られたCultural Station Seoul 284で開催されたChoi Jeong-hwaの大個展である。このギャラリーは、近代的な新ソウル駅に隣接してあり、東京駅と同じようにギャラリーとして使用されているが、後者がその一部のみを利用しているのに対し、前者は丸ごと駅舎一棟がギャラリーのスペースに当てられ、その規模の大きさに驚く。
そこでChoi Jeong-hwaは、以前から用いてきた彼独特の素材である極彩色(でないものもあるが)の日用品、装飾品、おもちゃ、廃棄物などを集めて、巨大なアートの殿堂を創出した(本ブログでは、会場の1階部分のみを紹介)。

会場前の広場に建てられたプラスチック製のざるの柱列。この近辺は、ホームレスが多いことで知られる。



Cultural Station Seoul 284






展示作のタイトルには、必ずflowerの単語がついている。





















The Art of Dansaekhwa(Kukje Gallery、8月28日~10月19日)
ソウルの大手ギャラリー、Kukjeで開催されていたのは、1970年代韓国のアートシーンに現れたDansaekhwaの作品の展覧会だった。その初期にリ・ウーファンが属していたこの運動は、韓国内では主流の表現に対するカウンターとして捉えられているが、現在から振り返れば、日本の同時期のもの派(まさに日本に移住したウーファンが先導した)と同様、当時のモダニズムの表現の最先端であったことが確認できる。そうであれば、現在のもの派の国際的な名声に続いて、Dansaekhwaの作品が国際的に評価されるようになるのは、時間の問題だろう。本展に含まれるアーティストは、この運動のオリジナルメンバーの7名だが、そのなかからもっとも印象に残ったHa Chong-Hyunの作品を紹介したい。彼の絵画は、絵具のマチエールの注意深く丁寧な扱いが、画面に緊張感ある静寂をもたらしているという点で、他にも増してクオリティが高いと思う。



絵具が削り取られているように見える表面が、画面から鑑賞者の視線を遠ざけるのではなく、削除された空隙に惹きつける。


上の2点は、カンヴァスの裏から濾し出されたように見える絵具のマチエールの細かい粒々が、爽やかなリズムを刻んでいる。
[札幌](日本)
札幌国際芸術祭2014(札幌市内の複数の会場、7月19日~9月28日)
この第1回大規模国際展(トリエンナーレ形式)を一口で語ることができないのは当然だが、あえてまとめて構造化すれば、柱となる4つの作品の間に、他の諸作品が集められて配置された展覧会と言えるのではないか。その4本柱とは、砂澤ビッキ、島袋道浩、山川冬樹、暮らしかた冒険家 札幌の家の作品である。4本の柱が象徴する、今回の展覧会のテーマである「都市と自然」に関連する意味は、砂澤が「抵抗」、島袋が「衝突」、山川が「接続」、暮らしかた冒険家が「リフォーム(改造)」である。それら柱の間に時間軸が垂直に走り、過去に向かうベクトルが近代を反省する作品(主に、道立近代美術館に展示)に、未来に延びるベクトルが近未来を予測する作品(主に、札幌駅前地下歩行空間に展示)に結晶している。

砂澤ビッキ

島袋道浩


山川冬樹



暮らしかた冒険家 札幌の家
問題は、私が恣意的に整理し直したこの展覧会の構造から、都市と自然の新たな関係が生まれるかということである。その成否の鍵は、近代の主客二元論的世界をどう克服するかにかかっている。だが、展覧会の時間軸上にある近代の反省(過去)は、近代の二元論を前提するのであれば、どこまでもそれを引きずり、克服に向けての実り多い結論を導くことができないのではないか?
それが、二元論を超克する困難を確認するに止まるという重苦しさを反省系の作品から感じさせるだけでなく、ポストモダン系の作品にさらに浮ついた雰囲気をまとわせたように思う(したがって、最終的に近代の真正面からの反省は、せいぜい反近代か前近代に陥るのがおちである)。近代の回顧は、近代を乗り越えた地平からなされなければならないということだ。
また、近代以降を展望する作品も、近代の未解決な障害(主客二元論)を内包したままでは、それが描き出す未来は、主体か客体に収斂するディストピアにならざるを得ないのではないか。