美術評論家 市原研太郎が送る現代アートのブログマガジン

ブロマガ

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紹介文:グローバルに拡大した現代アートのアーカイヴ作りと、そのアクチュアルな活動の見取り図を描くことを目的に、Art-in-Actionと名付けた現代アートのブログを立ち上げました。その取材に役立てるべくやむを得ず有料にしましたが、読者の方々の期待に答えられるよう努力を継続していきますので、よろしくお願いします。

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free 展覧会へのコメント(8月)

展覧会へのコメント(8月)



「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展ーヤゲオ財団コレクションより」(東京国立近代美術館、6月20日~8月24日)

国内ではなかなか見えることのない現代アートの傑作を前にして、鑑賞者の評判はかなりよいようだが、最初に少し皮肉を混ぜた疑問を投げさせてもらえば、国立美術館が、ついに白旗を揚げアートマーケットを受け入れざるをえない時が到来したのか? それほど、昨今の価格の法外な高騰ぶりが資金力のない美術館を打ちのめし、それが近寄りがたいアートマーケットを作り上げてしまったのか? それとも、美術館が美的価値のみに関わればよかった時代は終わりを告げ、リアリズムを追求するなら市場価値まで考慮に入れなければならなくなったのか?
あるいは、このようにマーケットで投資や投機の対象に作品がなった結果、あまりに高価な作品を所蔵できないことの恨みの裏返し(?)としてコレクション展が開かれたのか? そうでなければ、最後にビッグコレクターとのコラボレーションの展覧会を自画自賛していたが、展覧会を美術館が収蔵できない作品をビッグコレクターから借りる公認の言い訳にしているのか? そうなると、美術館がなにかしら道化のように見えなくもない。
さらに、現代アートに無知と目される大衆のレベルまで美術館が降りてきて、インターナショナルではなく彼らに理解しやすいナショナルな視点(なにしろ、大衆を操作する政治は右寄りになびいているので)と、文化論のクリシェである東西の文明の違いから、展覧会の企画を説き起こしている。だが、作品のコレクションをしているヤゲオ財団のオーナーは、彼が自慢げに真っ先に見せている台湾の画家サンユウの作品で東西の壁を打ち破り、ユニバーサルとはいわないまでもグローバルな世界に行き着いてしまっているのではないか?
美術館で、誰であれ個人コレクション展を開くこと自体、非難される謂れはない。しかも、サンユウの絵画で十二分に証明されたように、コレクターのブルジョワ趣味の優秀さは一目瞭然である。ところが、このコレクターが、植民地時代の宗主国ではなく、被植民地の台湾出身のコレクターだということに少なからず驚く。なぜかというと、戦前と戦後で文化的状況が逆転しているのではないかと思われるからだ(戦前からそうなのだとすれば、日本が軍事大国になるために支払った努力の代償はあまりに大きい)。
以上の疑問から、次のような関係が浮かび上がる。近現代アートでこれほど有名なアーティストの作品(大作も多い)を所有できるコレクターと、それらの作品を借用して陳列する美術館、それに、その市場価値にびっくりしながら見て回る鑑賞者=大衆(だが、プレートの説明の分かりやすさが、大衆が現代アートを知らないと仮定した上だとすれば、彼らを見損なっている。彼らは、下手をすると海外で学芸員より現代アートに頻繁に接しているかもしれないからだ)。
展覧会に関する私の感想を簡単に述べておこう。会場の途中に架けられたリヒターの絵画に付けられたプレートの説明は、近代美術館ならではの解釈の限界をさらしていたのではないか。それは、近代の限界である。そして最後の展示室で、それまで隠していたコレクターのブルジョワの本性、つまりキッチュへの不可避的な嗜好(写真の野外に設置されたマーク・クインの彫刻を参照)が図らずも漏れていたのではないか。これではヤゲオ財団は、2010年以降優れた作品のコレクションを継続し、国立美術館で展示されるほどの名声を博することは難しいだろう。
いずれにせよ、コレクター、美術館、鑑賞者の複雑で微妙な三角関係が鮮やかに見えた展覧会だったと思う。次回のブログマガジンで大いに参考にさせてもらうが、現代アートのグローバル・スタンダードに接する機会のほんとんどない日本で、その機会を与えてくれたことに感謝したい。





目「たよりない現実、この世界の在りか」展(資生堂ギャラリー、7月18日〜8月22日)

工事現場のような階段を降りていくと、ギャラリー空間が高級ホテルの絨毯を敷かれた廊下のようになっていて、廊下の壁には薄暗いランプと小さなドローイングが架かっている。壁には番号のついた扉が等間隔に穿たれ、各部屋の入口だと分かる。さらに進むと上に行く階段があったり、消火栓のある入口があったりして、それぞれ少し先まで行くことができる。一番奥には、扉の開いた部屋があり、鑑賞者は、そのなかに誘われる。こじんまりとした室内には机とベッドが置かれて、ホテルの一室と見て取れる。そのベッドのシーツに、“TAYORINAI GENJITSU / Konosekaino Arika”が縫い取られている。振り返って細い縦長の鏡を見ると、自分が映っていないで、その向こうに別の鑑賞者がいることに気づく。鏡が通り道になって、潜り抜けると向こう側は左右対称の部屋になっているのだ。そこは、文字までが裏返しになった部屋であった。この不可思議な感覚に陥る作品は、マイク・ネルソンやグレゴール・シュナイダーを思い浮かばせる環境設置型のインスタレーションだが、二人と違うのは、非常に綺麗なのと、たよりないからこそ細部にこだわるリアリズムではなかろうか。
鏡の国のアリスの虚構の裏返しは、目眩に襲われる現実だった。







「フィオナ・タンーまなざしの詩学」展(東京都写真美術館、7月19日〜9月23日)

上映されたドキュメンタリー『興味深い時代を生きますように』(1997年)では、フィオナ・タンの親族が、1960年代のインドネシアの政変に伴う華僑に対する弾圧で、投獄(彼女の祖父は、インドネシアの華僑の中心人物であったがゆえに、インドネシアの政権によって投獄された)や国外逃亡を余儀なくされたことが語られる(このあたりの事情を知ると、彼女の作品が文化やアイデンティティを主題にしているというより、歴史や政治を問題として取り上げているように思われる)。タンの家族も同様の運命に翻弄され、それがタンのアイデンティティ探求の旅の発端になる。彼女は、このルーツ探しの末に、ついに彼女の出自の中国の村を見つけ出すのだが、そこも彼女の故郷(永住の地)ではないと悟る。だが、彼女がそこを故郷と思えない理由は、案外深いところにあるのではなく表面にあるのではないか? 彼女の顔つきが中国人とは違うといった見かけの理由で(彼女が自分の顔に気にしていることは、様々なシーンで窺われる)。中国人でも欧米人でもない謎めいたこの見かけ(ここから導かれるのが、血縁がアイデンティティを支配するということだ)がイメージと結びつく。そして、彼女のイメージの探求(『影の王国』)へと進展していくのである。
展示室の映像作品を一口で言えば、映像で絵画を描くということになるだろうか。絵画のジャンルは、風景画あり肖像画あり室内画あり、そして神話画(『インヴェントリー』)まである。さすがに神話画は、脱中心化して理念を抜き取ってあるが。だが、映像は絵画よりマチエールがない分、ポストモダンの解放的な軽やかさを享受する。その映像を絵画にするというのは、歴史的な後退ではないのか?

同時開催の「岡村昭彦の写真」展は、タンの家族がディアスポラへと追いやられた1960年代に、インドネシアと同じく共産主義運動の発火点となったベトナムで戦争を取材した岡村昭彦の、味方も敵も、生者も死者もひとしなみに丹念に撮影する誠実な姿勢に感動した。フォトジャーナリズムの枠を越えた彼の精力的な活動は、もっと注目されてよい。





「五月女哲平:記号でもなく、もちろん石でもなく」展(青山|目黒、7月19日〜8月23日)

五月女は、絵画科出身ながら初期の頃は立体を制作していて、次第に平面へと移行したという。今回は、過去の具象や抽象の絵画から諸要素を切り取り、組み合わせたものであると説明してくれた。彼の作品は、カンヴァスの外形を含めて配列された色面の関係によって作られる。これらを観ていると、彼の作品が平面に収斂したことが納得できる。立体でなくとも、彼の意図は実践できるだけでなく、純粋に実験できるからだ。この平面がイメージであると、五月女は知っているのではないか。

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「行儀と支度 八重樫ゆい」展(Misako & Rosen、7月27日~8月31日)

私は、かつて八重樫の薄塗りの絵画を「プア・アート」と呼んだことがある。このプアは、イタリアのアルテ・ポヴェラとは違って、生の素材を意味するのではなく、用いる素材の多寡に注目して発想されたアイデアだった。だが今回、彼女の個展の作品は、絵具を厚く塗ってあるように見える。この厚塗り(あるいは重ね塗り)が、画面に深みや不透明性や透明性を与えていることは間違いない。現在、東京オペラシティ アートギャラリーに展示されている同じアーティストの絵画に描かれたフォルムの明確さも、この効果から生まれたのではないか。このように自在な技法によって明示されるのは、豊かさである。しかも、この豊かさは貧しさの裏返しであるだろう。貧しさは豊かさへと逆転されるのだ。

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「山田周平 X」展(aishonanzuka Gallery、8月1日~8月30日)

作品のすべての要素が引用と、そのコラージュで構成される山田のインスタレーション作品は、現実世界の構造を暴く。絵画に描かれるのは、スーパーマンの漫画から切り抜いた打撃音のPOWだ。それが、ハンコで押されて反復される。この変換のジェスチャーで、アメリカのヒーローの権威は、ものの見事に地に堕ちる。だが、この一連の作品の究極は、モーフィングによって平均値と化した過去の残虐な独裁者の哀れな風貌に現れる。もはや権力を批判するのに、ドーミエのように手の込んだ風刺は必要ない。近寄りがたい権威を失墜させるには、引用とコラージュの自動的な形成術であるモーフィングに任せればよい。山田の諧謔の遊びは、これからもアナーキーなノンスタイルを貫くだろう。

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「青木豊 Mouvements」展(sprout curation、8月2日~9月6日)

青木豊の作品からは、フェティッシュになりにくいものをフェティッシュにする試みを孜々営々と行っているように見える。当然、それは失敗するだろうが、失敗することは彼のアートのために吉と出る。なぜならフェティッシュの廃墟から、奇跡的にシミュラークルが立ち昇るからである。

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「無人島 ∞」(無人島プロダクション、8月8日〜9月15日)

無人島8周年、おめでとうございます。いつも面白い展覧会を見せてくれてありがとう。
9年目に突入して、ますます元気な作品を見せてくれることを期待します。

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無人島プロダクション8周年記念展。出展アーティストは、八谷和彦、八木良太、Chim↑Pom、西村健太、風間サチ子、臼井良平、朝海陽子、田口行弘、松田修、加藤翼。



「On This Planet 栗山斉」展(island MEDIUM、8月23日~9月14日)

シミュラークルとはモデルなきコピーである。だから、コピーではなくモデル作りへ向かう。オリジナルを創出しようというのではない。自然界にある(とされる)現象をモデル化する(以下のキャプションの説明を参照)。だが、このモデルは人工的に作られる(それが、栗山の作り出す装置としての作品である)ので、当然、自然とは異なる。このモデルが、シミュラークル(モデルの自然とは異なるモデル)と呼ばれる所以である。そう言えば、真空のガラス球は真空のシミュラークルであり、地球の回転の写真は星座のそれのシミュラークル(差異が刻まれた類似)=モデルではなかったのか。

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地球の自転運動の可視化。光の曲線は、星座ではなく都市の人工の光の軌跡である。
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生命の誕生の起源とされるタアミノ酸の合成の実験で、アンモニアとエタノールの化学反応を火花で生じさせる。三番目は、アミノ酸が生成していることを証明する試験紙の模様。
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地球上のH₂Oの循環を再現する装置。そのフォルムはピラミッドのように見える。ピラミッドは、宇宙のモデルではなかったか?



小西紀行「人間の行動」展(アラタニウラノ、8月23日~9月20日)

小西の作品は、ときにムンクやデクーニングやベーコンを思わせるデフォルメーションから、白く太い骨組みのような線が、タトリンの線描と同じ機能を果たす抽象化へと変化してきているように見える。だが、この変化の背景にあるのは、名前を挙げた画家たちのフィギュラティブを抽象化(物質主義に裏打ちされた)する意志とは違って、フィギュラティブの質的変化(物質からイメージへ)への意志だろう。それが、絵の具を拭い去ったような線描から読み取れる。

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