free 展覧会へのコメント(11月)

展覧会へのコメント(11月)



「リー・ミンウェイとその関係」展(森美術館、9月20日~2015年1月4日)

リー・ミンウェイの作品を見て「関係性」について改めて考えることは、「関係性のアート」の発案者のニコラ・ブリオーにすでに感じていたことだが、どのようなものにでも「関係性」を当てはめることができ、結果、「関係性」を証明する作品は既存のアートでよいという現状肯定の口実にされる懸念が拭いきれないということである。ブリオーは、今年の台北ビエンナーレで、現代の最前線の状況である“Great Acceleration”(科学技術の飛躍的な発達)の下での“Antropocene”(新しい人間)に「関係性」を適用して分析し、その明確化を試みた。しかし、彼の理論の本質的なモダニズムに変化はなかったと思う。
話をミンウェイの作品に戻せば、展示の前半にある作品(「プロジェクト・繕う」)は、「関係性のアート」で既成のアートの枠組みを打ち破ると説明されているが、すでにアートがどのような様態であろうと構わないインフォーマルなアートの現代では、このステートメントにそれほどの威力はないのではないか。

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展示の後半の作品(「広がる花園」)は、「関係性」をアーティストと鑑賞者から、鑑賞者が花を手渡す見知らぬ他人へと拡張することで、彼の作品にようやく緊張感ある可能性が萌してきたような気がした。しかし、これも掛け声だけの無責任な標語に終われば、せっかく芽生えた可能性も潰えるだろう。

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「パランプセスト―重ね書きされた記憶/記憶の重ね書き Vol.4 小林耕平」展(αM、10月11日~11月8日)

伊藤亜紗のテクスト「透・明・人・間」を元にして小林耕平が制作した映像とオブジェのインスタレーション。映像は、小林が一人ないし二人の人間に指示を出してパフォーマンスをしてもらう様子を撮影している。インスタレーションでは、映像のなかにあるオブジェが会場の床に置かれることで現実と映像が接続され、現実のオブジェが映像に送り込まれる。すると、それに引きずられて鑑賞者も映像に吸収され、映像のなかのパフォーマンスの架空の目撃者となる。鑑賞者は目前の映像に溶け込むこと(感情移入ではない)で、「透明人間」になるのだ。そこにありながらないことが、小林の作品における「透明人間」の定義だからである。
とはいえ、小林の映像のなかではオブジェ(物質)が透明になることはない。彼に指示を出される人間が透明になる役割を引き受ける。透明になることで彼らは媒体と化し、他者ここでは目撃者である鑑賞者に、媒介される特定の感覚と認識を伝える。だが、この作品ではそれが何であるか分かりにくい。その訳は、映像の主題が透明化する媒体の人間だからであり、現実をモチーフとしながら媒介される社会が浮かび上がらないのは、媒体の人間を含めて人物たちが行うパフォーマンスが、基本的に社会から切り離された「遊び」だからである。
この作品が手探りで人間を透明化して媒体とする意図は、どこにあるのだろうか。ニーチェは、たしか人間存在の透明化の不可能性を語っていた。小林のステートメントには透明化の目的らしきことが記されているが、そのどれもがニーチェを揶揄するかのように、「透・明・人・間」の試行錯誤へのコメントになっていたように思う。
いずれにせよ、鑑賞者が透明人間となって参加する現実世界を舞台とする映像は良い意味で軽く、かつ、その現実と作品の内容の非政治、非社会性のギャップが不思議な印象を残す作品だった。

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「荒木経惟 往生写集」展(資生堂ギャラリー、10月22日~12月25日)

壁面下部に並ぶ2014年の銀座の往来を撮影した白黒写真と、壁面上部のやはり白黒の空の写真は、紛れもなく死を暗示している。白黒の風景とは逆に、静物の毒々しく極彩色の花もまた、生花という名の死であり、そこに添えられたオモチャも死物である。かくして展覧会は、会場の説明にあるような「往生」から「再生」への転換ではなく、荒木の晩年を美しく飾り立てる能弁なイメージの連なりだった。

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「ヴィック・ムニーズ “Small”」展(nca | nichido contemporary art、10月24日~11月29日)

ヴィック・ムニーズの作歴を通観すると、作品のスケールが極大から極小まで振れていることに気づく。それは、彼の名前を世界に知らしめた素材とイメージの間の齟齬に社会的批判を込めた写真についても言える。そのようなことになったのは、イメージとなった対象の実物大のサイズと、写真に写されたイメージの大きさとの間に、拡大と縮尺に関する一定の基準がないからである。
イメージは理論上、無限に拡大するすることも縮小することもできる。したがって、極大や極小は、それを実現するテクノロジーの特性と考えてはならない。逆に、テクノロジーは極大・極小の動きに制限を課す。それはイメージに特有の属性であり、イメージ次第で、極大化と極小化が決定されることになる。
ムニーズは、今回の展覧会では極小の世界に照準に定めて視覚化することに挑戦した。そのアクロバティックな表現に驚くことだけが、これらの作品の真骨頂ではない。前節で述べたように、最先端技術であるナノテクノロジーの実力を証明することに表現の主眼があるわけではないし、また、ミクロコスモスの神秘を白日の下にさらすことを狙っているのでもない。イメージの可塑性を極小の世界に適用して、極小化(それはテクノロジーの現時点での限界である)による物質的状態の凝集を見極めようとしているのである。そのためには、撮影された画像を知覚可能までに引き延ばすテクノロジーが要請される。
極大化がけっして物質の散漫化を意味するのではなく、物質のダイナミックな展開を目指した表現だとすれば、極小化は物質の密度の集約を目指すことで、物質世界の堅固さを証拠立てる。そうすることで、ムニーズの作品はモダンを再評価している。モダンを回顧することだけが、モダンの再評価の手段ではない。極小世界に注意を集中することで、モダンを支持してきた物質世界を確認すること。これが、ポストモダンの表層を漂う寄る辺ない人間に、自らの拠って立つ土台を感知させる。ムニーズによるナノスケールのイメージの拡大の背景にある考え方は、以上のようなことではないだろうか。
しかし、それだけではモダンにオマージュを捧げる表現に終わってしまうだろう。実は、その先があって、この凝集した物質世界がイメージであることを、彼の作品は含意しているのである。

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以上は、微小な砂粒にナノテクノロジーを使ってドローイングした城の拡大写真。

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以上は、培養地のシャーレでウィルスなどの細胞を増殖させてできた装飾模様の拡大写真。



「山本雄基 作品展 “parallel circles”」(伊勢丹新宿店アートギャラリー、10月29日~11月4日)

色彩とサイズの様々な円と、それらを正方形に構成する規則によって複雑なパターンを描き出す絵画。この組み合わせのバラエティが尽きることはないと、アーティストの山本は述べた。
今回の個展を観て感じたのは、彼が意図する表現には二種類あるのではないかということだった。円の組み合わせの多様性ではなく、それらの円が描かれるレイヤーの重なりによって、奥行きが3次元としてはっきり認知されるものと、奥行きが靄がかかるようにぼんやりとしているものである。この二つのタイプの奥行きのイリュージョンは、会場の照明の強さで余計に目立っていた。
イリュージョンといえば、評論家グリーンバーグが言及して以来注目され、モダンの絵画はそれを駆逐することを試みたが、しぶとく生き残ってきた要素である。山本はそれを意識的に用い、彼の絵画の重要な特徴としている。
私は、かつてリヒター論でこのイリュージョンを俎上に乗せ、古典絵画の再現的なものから、モダンによるイリュージョンの排除、そしてリヒターによる非再現的イリュージョンの生成という歴史的変遷を仮説として立てた。その時の予想は、2010年代の現在間違っていないと思う。現代アートは、この非再現的イリュージョンあるいはイメージをめぐって推移しているのだ。
この流れに、当然山本の作品も加わってくるだろう。そのとき、彼が織りなす先述の二種類のイリュージョンは、どのように絡むのか。というのも、彼の作品から判別される二つのイリュージョンのうち、明確な空間を分節化するものはモダンの物理的な空間に対応し、ぼんやりと曖昧なものはポストモダンの空間に対応しているように思われるからである。これは、表面的な形式的分析の結果ではなく、モダンとポストモダンの世界観から生まれる決定的な違いである。
モダンアートはアンチ・イリュージョンだったが、最終的にそれから逃れられなかった。のみならず、モダンの空間自体がイリュージョンであったことを、反省的な思考が確認しつつある。それが、現在のアートの活動に大きな影響を及ぼしている。
彼は今、この二つのイリュージョンを彼独特の方法論で検証しながら吟味し、未来に向かって飛躍のバネを鍛えているのかもしれない。山本は、今後の展開に目を離せないアーティストの一人だろう。

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「逆転移/リギョン」展(銀座メゾンエルメスフォーラム、10月31日~2015年1月7日)

リギョンのインスタレーションを見ていると、光がニュートンによって光学現象として捉えられるようになって以来、光を真理の寓意としてプラトン流に理解する道が閉ざされたという感想が浮かんだ。アートは科学ではないのだから、神秘主義が大真面目に信じられてもよい。たしかにそうだが、科学的知見は、アートに甚大な影響を与えている。それゆえ、アートにおいても神秘主義は超越者を抜きに構想されねばならず、それが2013年のヴェネツィア・ビエンナーレの隠されたテーマにもなっていた。そのことを、リギョンは知らないはずはない。
そうした眼差しで、今一度作品を見てみよう。彼の用いる光は、真理と結びつく神秘的要素が一切ない。すると、どう見えるか? 壁に描かれたほとんど判読できないテクストや、眩惑的な光沢のある広い床面(滑りやすい)の淡い反映が、空間を幻想化していることに気づく。とはいえ、そこに既知の神秘的世界を連想させるものは何もない。この幻想空間を神なき神秘主義と言えばよいか。
壁が微妙に湾曲しているもう一つの作品の空間についても、同様である。それは、中央の天井から吊るされた漁船用の強烈なライトによって鑑賞者が目くらまされるほどに明るく、そのため壁面の境界が消失して縹緲とした空間に変貌している。だが、そこにも神秘的要素はない。神秘主義に毒されていないこの神秘が、リギョンの作品の魅力である。

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Chim↑Pom展「ヤジルシソビエトル~ChimとPomのパラドクス」(無人島プロダクション、11月1日~11月29日)

我々の生きる世界には乗り越えるのが困難な様々な壁がある。その最大の壁は死だろう。それをテーマとした作品が、ギャラリーの天井裏に隠されていた。だが、現実問題として最大の難関の壁は国境である。会田誠扮するオサマ・ビン・ラディンが言うように、近代国家は多くの犠牲者を出し、今も出し続けていることは誰もが知っている。したがって、短絡的ではなく国家を廃棄し国境を消すことは、9.11のような惨事をなくすためには急務なのた。それは、Chim↑Pomのメンバーの一人が、アメリカで展覧会をコヨーテとともに開き、“I love America”と恙無く言えるためにも不可欠である。展覧会場には、様々な壁=境界を乗り越えていくパズルのピースがはめ込まれていた。このパズルのピースこそ、Chim↑Pomの自画像ではないか。これらのピースが、ギャラリーの壁一面を埋め尽くしたとき、ギャラリーというアートの制度空間が廃棄され、晴れてアートは巷にあふれ出ていくことができる。最後に、現実のラディンではなく、ラディンの死後アナーキストとして生き延びたビン・ラディンの演説に熱烈な賛意を表したい。

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「ぼーけん、菊池良太」展(Island、11月6日~11月23日)

菊池良太は、フリークライミングに長らく親しんだ後、芸大に入り、このような作品を作り始めたという。それが、素直に現れた作品には好感が持てる。人間は、何事も完璧にできるほどスーパーマンではないからだ。だが、彼の作品を見ていると、このアーティストはスーパーマンではないかと思えてくる。何にでもトライして、それを踏破するように見えるのだ。しかし、何のためにやるのだろうか? そこに山があるからだと登山家は言った。フリークライマーなら、そこに障害物があるからと答えるだろうか? そのとき、障害物とは何か? フリークライマーは不可能に挑戦しない。できると踏んだものにしか挑戦しない。その確実さが、写真を通じて安心感をもたらす。と同時に、クライマーの常人とは異なる空間に対する感覚が、こちらに伝わってくる。それは何か? 彼は、障害物を征服したのだ。彼が登る人工的な建造物のことではない。それは、宙にもんどりうって飛び出したイブ・クラインが、地上に叩きつけられる前に実感していただろう空虚の手前にある重力である。この重力からの解放こそが、フリークライマーとしてのアーティストの快楽なのではあるまいか。そういえば、ロバート・インディアナのLOVEの彫刻の隙間に横たわるアーティストは、アートという無重力の揺りかごに抱きかかえられた赤ん坊のように見えはしないか?

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2014.12.15 | コメント(0) | 展評

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