free[連載]Biennale Story(1) アテネ・ビエンナーレ 2011

第3回アテネ・ビエンナーレ―社会性のアート(実践編)


11月(2011年)に入ると、ギリシャも寒くなる(その後入ったドイツほどではないが)。そのギリシャの首都アテネで、第3回アテネ・ビエンナーレが開催されている(~12月11日)。私は、1回目から見ているので、その変遷を知っているが、毎回会場を変えて行われてきた。それでも、展覧会には今回を含めて共通する特徴がある。それは、作品の一つひとつがそうであり、展示全体を見ると余計にその感を強くする、カオティックでアナーキーな雰囲気である。
しかし、今回はかなり事情が異なった。というのは、ビエンナーレとその展示作ではなく、それを取り囲む状況が過去2回とはまったく違うことである。「ギリシャ発の」と形容されるEUの危機の、まさにその発端となったギリシャの首都アテネで、ビエンナーレが開かれたからである。事前にネットで調べて確認しておいたので大丈夫と安心したのだが、本当に行われているのかと少し心配しながら、アテネ入りした。が、アテネは2年前と変わらず、平穏に日常が送られているように思われた。それが、滞在している間に少しずついつもとは違う表情を見せはじめて、この都市から緊迫感が伝わってくるようになった。この緊迫感が、これまでにはないビエンナーレをめぐる変化だったのである。



2011年、ギリシャでは二つのビエンナーレが開催された。一つは、artscapeの11月15日号に展評を掲載したテッサロニキ(会期9月18日~11月18日、http://artscape.jp/focus/10015005_1638.html)であり、もう一つは、ここで紹介するギリシャの首都で開かれたアテネ・ビエンナーレ(以下ABと略、http://www.athensbiennial.org/。10月23日~12月11日)である。
この二つのビエンナーレは、両方とも2011年で3回目と若い定期開催の国際展だが、その組織形態はかなり異なる。というのも、テッサロニキは市内にある三つの現代美術館を中心にした、いわば官製(テッサロニキ市、マケドニア州、ギリシャ共和国、EUが支援)のビエンナーレであるのに対して、ABの方は、主催者がギリシャ人のキュレーター、アーティスト、評論家の3名(彼らの頭文字をとってXYZと呼ばれる)であることで分かるように、民間の手作りのビエンナーレという大きな違いがあるからだ。


実際、前回の2009年、XYZの一人(アーティストのPoka-Yio)に尋ねたところ、ABが、この3人の気軽なカフェトークで話題に上ったことが発端で始められ、様々な援助によって実現されているとの答えが返ってきた。勿論、資金集めは大変だが、ヨーロッパ文明の発祥の地ギリシャで行われる国際展ということで、一様にスポンサーが興味を抱いてくれるとのこと。それを聞きながら、私は2007年の第1回のメインスポンサーがドイツ銀行だったことを思い出した(そのタイトルは、なんと“DESTROY ATHENS”)。
このようにテッサロニキとアテネで展覧会の成り立ちは異なるが、社会との関わりという点では同じ方針を打ち出している。それは、グローバルなアートのカッティング・エッジを見せる(勿論、最先端で十分通用する作品が多数出品されているが)というより、ローカルな地元との関係を重視し、アートを通じてテッサロニキやアテネの都市の状況に切り込む方向性が明確になっているということである。
ただし、テッサロニキは、アレキサンダー大王で有名なマケドニア地方の中心都市であり、より地域に密着する傾向が強いのに対して、アテネは、ギリシャの首都であることもあって、ギリシャという国と国の象徴である首都(アテネ)に関心が集まるように思われた(前回の会場は、ギリシャの財政危機の一端になったと言われるアテネ・オリンピックの競技場のすぐ近く、美しいエーゲ海沿いのハーバーの倉庫で行われた。そのタイトルは、皮肉にも“HEAVEN”)。
とはいっても、テッサロニキ・ビエンナーレの展評の折にも書いたが、町興し(とりわけ経済面での)ではなく、国や地域や都市が抱える社会、文化、政治問題に積極的に関与していこうとする姿勢が明白である。とりわけ、債務の返済で財政危機に陥っているギリシャは、社会的政治的な激動のさ中にあり、それに直接、間接にコミットする作品が多く出展されるようになるだろうことは想像に難くない。
 

テッサロニキが、地方の歴史により重点が置かれた企画だったとすれば、アテネのビエンナーレ(AB3)は、まさに現在ギリシャとアテネが対峙している厳しい社会的政治的課題に焦点を当てた。このビエンナーレのオープン直前、アテネは、財政危機に見舞われた政府が、EUの圧力で採用しようとした緊縮策に反発する労働者、市民による政府批判のデモがピークを迎えていた。それに素早く反応したビエンナーレのサイトは、展覧会が確実に開かれるとの情報を流していた。
このような社会状況を背景にして、AB3は開催されたのだが、展示作品の説明の前に、まず会場を紹介したい。会場は全部で三か所だが、メイン会場が一番興味深い。というのも、それはアテネの中心にある市場(「現代のアゴラ」)のすぐそば、美術工芸学校(名称はDiplareios School。1932年開校で、ギリシャの近代化に貢献。現在も一部が使用されている)の広壮な建物だからである*1。
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アテネの社会で機能してきた建築物であることが、周囲の環境や状況から切り離された美術館のホワイトルームとは異なり、会場が都市としてのアテネに隣接するという意識を強化し、展覧会を社会のインデックス(隣接性が指示作用を有する)にする。つまり、アテネと地続きの同一地平上に建築と作品が置かれて、アテネの現状を指示するばかりでなく、作品のメッセージがアテネとギリシャに送り届けられる(表現の射程がアクロポリスの丘のパルテノン宮殿にまで達する5階の展示風景を参照*2)。
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そのことによって、社会にコミットする表現の力が、身近にリアルに感じられるのだ。
 

さて、メイン会場の展示は5つのフロア(地下1階、地上4階)があるが、まず1階の展示から紹介していこう。ここには多くのインスタレーション作品が置かれている。アートが社会にコミットするとは、必ずしも状況に直接的に介入する(その実例は、まさに会場の外に出てデモに加わること*3)
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*3 ビエンナーレ会期中、アテネ市内で行われていた集会
とは限らない。会場内に留まりながら、間接的にコミットするやり方はいくらでもある(アート自体が、その典型だったが、現在ではその確信が揺らぎつつある。このトピックについては、2012年のベルリン・ビエンナーレ報告で議論したい)。
1階に並べられた作品を見れば、インスタレーションの放つカオティックなエネルギーが、現在アテネで繰り広げられている市民たちの社会的政治的行動のそれに呼応していると容易に推察される。EU加盟を機に海外から投資を呼び込み、それが金融危機によって破綻して巨大な借金に膨れ上がった。資本主義のグローバリゼーションの餌食になって債務を背負うことになったギリシャの政府や政治家が、彼らの失政のツケを国民に支払わせようとしている。国民は、その理不尽な仕打ちに怒りを爆発させ、デモや暴動など直接行動に走ることになったのだ。
彼らの行動のラディカルな批判的意識が、実に様々な要素が配列されたNikos Charalambidisのインスタレーションから感じられる*4。
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市民の示威行為のもつアナーキーなエネルギーが、そこから放出される(この作品は、アテネ市民のデモに言及したものではない。政治的に特殊な環境に設置される美術学校にまつわるプロジェクトの一部だが、民衆の力を誇示するものと解釈されておかしくない)。
同じ部屋で、このインスタレーションの反対側に置かれたインスタレーション群も、同様な雰囲気を漂わせている。これらのインスタレーションは、Kernelの企画で集まった11組のアーティストの展示(タイトルはWord of Mouth、http://thewordofmouth.ne/)で、アテネで勃発している非常時の出来事に関するメディアや知識人のコメント(Floater Magazine、http://www.floatermagazine.com/athensaudiograms/)、世界中のマイノリティの活動の資料(Yota Ioannidou & Teresa Diaz Nerio*5‐1)
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投稿されたヴィデオ映像を編集するサイト(Lucky PDF*5‐2)
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グループの身体が具象化したオブジェ(Phrixos*5‐3)
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ポール・チャンの本のある古代ギリシャ風のインスタレーション(Badlands Unlimited presenting Phaedrus Pron by Paul Chan*5‐4)
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などが、やはりアナーキーな匂いを発散していた。
付言すると、私がここで言うアナーキズムは、けっして破壊主義的活動ではない。国家などの大権力(家父長的権力)に依存しない自律的社会の構築を模索する思想と運動である。


3階(2階は、現在学校として使用されている)に上がると、各部屋に作品が行儀よく並べられている。1階の雰囲気とは違うが、やはり現在の状況に言及する作品が多い。ここでは、それらの中で印象に残ったものの写真を列挙してみる*6。
6-1+Jakob+Kolding,+2000_convert_20120520221857 6-3+Andreas+Lolis,+2011_convert_20120520222152 6-2+Vlassis+Caniaris,+1959_convert_20120520222321 6-5+Paul+Chan,+2008_convert_20120522060638 6-6+Spyros+Staveris,+2011_convert_20120522060908 6-7+Uygur+Yilmaz,+2003-2004_convert_20120522061117 6-8+Vorgos+Vakirtzis,1974_convert_20120522061323 6-9+Liam+Gillick,+1998_convert_20120522061533 6-10+Rollou+Panagiotou,+2011_convert_20120522061802 6-11+Janice+Kerbel,+2004_convert_201205220623006-12+Jens+Haaning,+2006_convert_20120522062530 6-13+Ino+Varvariti,+2009_convert_20120522063527 6-14+Under+Construction,+2009_convert_20120522063945 6-15+Michalis+Katzourakis_convert_20120525173136.jpg 6-16+Matias+Faldbakken,+2008_convert_20120525173341 6-17+Rena+Papaspyrou,+1980-1981_convert_20120525173511 6-18+Kostas+Bassanos,+2010_convert_20120525173653 6-19+Vassili+Balatsos,+2011_convert_20120526201325 6-20+David+Adler_convert_20120526201527.jpg 6-4+Paris+Petridis,+2007_convert_20120522055816
これらの作品からは、社会的な考察の糸口になる諸々の要素が明らかに見て取れるだろう。


早足に3階を通り過ぎた理由は、この元学校の会場で、4階の展示がもっとも興味深かったからだ。このフロアには、社会性(一般であれ特定であれ、社会に言及することは勿論、それを分析し批判することで変革を促す、つまり社会批判と変革を目指す)のアートを実践する上で、注目すべき特徴が詰め込まれた多くの作品があったと言ってよい。社会との関係を断ち切られたアートが、その緊密な結合をどのように取り戻すのかということは、20世紀を通じて表現の自律性を追求したモダンアートのメインストリームと、1980年代から21世紀初頭の現在まで、いかにしてモダンアートの終焉を延命させるかに没頭してきたポストモダンの両方(それらが、資本主義の強大化に寄与してきたことは言うまでもない)を乗り越えようとするアートにとって、決定的に重要な問題である。
1階の展示ですでに説明したように、展覧会が社会のインデックスとなるテクスト(展覧会)とコンテクスト(社会)の関係を有していれば、この問題に解決の可能性が開けてくる。だが、内容だけでなく形式的にも断絶したアートと社会をつなぐ回路を復活させるための道筋は簡単に描けるものではない。念を押しておくが、20世紀のアートはモダンの本体と決別したのではない。それは、モダンの最盛期、自律性を探求してフォーマリズムを具現した作品にすら、モダンのイデオロギーが混入していたことで分かる(それは、第二次大戦後、20世紀後半のアメリカン・アートの物質主義に代表的される)。
したがって、厳密に言えば、モダンアートは社会性と無関係ではなく、密かにモダンの社会を背後から支持してきた。だが、とにかく表向きモダンアートは、社会との紐帯を断ち切り、コンテクストから独立して純粋と称するアートを目指したのである。その断絶を修復し結び直すには、どのような手段を用いればよいか?


この課題を簡単に解決することはできない。とはいえ、アートをめぐる事態は急速に変化している。社会は、アートが新たに出現した状況に対応するべく理論的実践的に方法を練り直して新パラダイムを作り出すまで、ゆっくりと立ち止まって待ってはくれない。勿論、周囲の状況は関係ないと嘯き、モダンアートの孤立に固執する態度を維持するやり方もあるが、それは現実からの逃避としか見られなくなってきた。
このように、アートの変容を促しているのは、アートを取り囲んで急速に変化しつつある社会のほうなのである。とりあえず、内容と形式の両面で社会性を導入することを試みることだ。その後で、じっくり社会性を組み込んだ表現のパラダイムを考察すればよい。ここで不注意から躓かないようにしたいのは、あわてて再現的な表現に回帰しないことである。再現は、社会性のモティーフを収める容器として都合よく立ち働いてくれる。モダン以前の古典的アートは、この再現の方式を大いに利用して、現実を支配する権力関係を民衆に既成事実として認知させ承認させた(17世紀バロックの巨匠ルーベンスの絵画を想起されたい)。
再現は、基本的に過去(よくて既定の現実)の表象(報告)であり、現行社会が変革を志したとしても、せいぜいそれを跡づけることしかできず(勿論、過去の根本的な変革を称賛することは、意義なしとはしない)、現在進行形の変革を推進するパワーをもたない。ロシア・アヴァンギャルドが挫折したのは、20世紀初頭、文化的な後進国であったロシアで、革命支持派でさえ免れえなかった再現のパラダイムの根強さに、ひとたまりもなく足元をすくわれたからだ(シュプレマティスムのマレーヴィッチの具象への回帰が、その典型例である)。再現は過去へと牽引する力で、人間から未来へと突入する意欲を奪う。では、社会的内容を投入してなお前進する力を与える表現のパラダイムとはどのようなものだろうか?
これに対する答えは、社会の要求に敏感に応答する中で、実践的に見出していくほかないだろう。時代は、ベンヤミンの天使のように、過去ではなく未来に向かって吹き飛ばされていく。それがベンヤミンと異なるのは、後ろ向きにではなく前向きに、である。そうであるからこそ、未来のヴィジョンを表現の内容に据えるしかない。未来の世界を内容にするのだから、それは過去の再現ではない。それでは、未来の世界という意味での再現なのだろうか?
だが、未来の未来にタイムスリップでもしない限り、未来を再現することはできない。未来は予想できても、再現不可能である。しかし、予想できる未来は、本来の意味での未来ではない。予想内の未来は、想像による現在の延長の未来、つまり現在の派生態でしかないからだ。未来は根本的に現在から切り離されて、予想不可能である。では、予想ではない想像の所産たとえば現実離れしたファンタジーが奇しくも未来を予言し的中することがあるのではないか? この種の想像の矢に関しても、未来に命中するには限界がある。再現不可能かつ予想が誤謬に陥る未来を志向する表現とは? 未来を語るアートのこのジレンマをいかに解決するのか? 未来のヴィジョンを非再現的、非予想的に伝達するアートとは、一体何か?


では、どのようにAB3が、この急激に変化しつつある社会に、手探りで応答しながら表現を打ち出そうとしていたかを、作品を挙げながら説明してみよう。何か特別なメルクマールとなる作品はあるだろうか。3階の作品を見れば、社会性を喚起するが、やや古臭いタイプの表現が設置されているように思われたかもしれない。実際、制作年の古い作品が並んでいた。それでも、それらの作品が選ばれたのは、ひとえに表現の形式と内容に社会性の片鱗が見られるからである(とりわけギリシャのモダンを再解釈、再評価することが目論まれていることにおいて)。
だが、それでは過去あるいは現在の状況を再認できるだけであり、それを超えて変革へと推進するアートではない。とはいえ、社会変革をもたらすアートはプロパガンダではない。プロパガンダは、一時的な騒乱状態を作り出す政治的アジテーションにはなっても、根源的に歴史を変える原動力にはならないからだ。プロパガンダではなく、後述するように過去を知ることは、未来のヴィジョンを構築する不可欠な要素となる。
まず、現状を認識することから始めよう。ギリシャは、国家的なカタストロフが間近に迫っていると見られているが、そうであればあるほど、その困難な状況から変革への道が切り開かれるかもしれない。確かに、ギリシャでは、国の財政危機に端を発した社会的政治的混乱に陥っているが、この不正に抗議して正義を要求する市民による政府(国家)への抵抗と闘争が行われている。4階には、この同時代の社会的現実をレポートするスライドショー、Spyros Staverisの“Syntagma”(2011)*7[広告] VPS
がある。この画像が提供するアテネの街頭の模様を見れば、デモの参加者の並はずれた昂揚感に触れることができる。そこから、債務不履行とEU離脱が迫る経済的危機に直面する国に住む人民とは思えない熱狂と希望を、各人の姿から察することができるだろう。
解放への期待と言うべきか。というより、すでに解放された市民の上気した顔、顔、顔が次々に現れる。勿論、警察の弾圧が、彼らの喜びに満ちた解放感をぶち壊しにかかるだろう。デモは鎮圧される。それは結局、一時的な民衆の祝祭劇に終わるのかもしれない。だが、広場を占拠した記憶は、参加者の脳裏にいつまでも焼きつけられるはずだ。その解放感の源泉は、どこにあったのか?
話は少しずれるが、このスライドの展示の近くに、Vassilis Mazomenosのアニメ作品が投影されていたことは、興味深い。“Money: A Mythology of Darkness”(1998)*8[広告] VPS
とタイトルされた映像は、貨幣=資本の奔流が様々なシチュエーションを構成して世界を呑み込んでいく様を、神話物語的かつ風刺的に描いたものだが、まさにアテネ市民がそのために苦しめられている元凶の姿を、暗い画面の中に幻想的に捉えている。


しかし、改めて“Syntagma”を作品として見た場合、それは市民の輝かしい反政府運動がもっとも高まった2週間あまりの記録であり、鑑賞者はその生々しい記録を眺めて、直前の過去にあった「アテネの春」を想起するだけではないのか。これが再現の典型的な機能であり、それ以上の行動を直に呼び起こすことはない。再現は、過去への退行のみではなく、受け手を、その名の通り受動的に固定する委縮的な魔力を帯びているのだ。
同じフロアには、20世紀後半のギリシャに起こった政治的文化的な運動(反軍事独裁政権)を取材したNikos Koudourosのドキュメンタリー“The Song of Fire”(1975)*9[広告] VPS
や、やはり同時代の文化的状況を反映するTonis Lykouressisの劇映画“The Bleeding Sculpture”(1982)*10[広告] VPS
も映写されている。現代に至る歴史的な背景の点と点をつなぐことで、鑑賞者に反省する機会を与えている。
ここで、過去の歴史を想起してノスタルジーにふけるためではない逆転劇が起こる。それを、現在の危機につながり連続するものとして捉えかえす、言い換えれば、現在の視点から過去を見る。もしそれができれば、この時間軸の延長上に未来を構想できるようになるのではないだろうか。たとえば、2階に飾られたVlassis Caniarisの作品(6-3)
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は、平面作品ではなくまさしく壁であり、現実の非情な実態である。その意味で、彼の作品は過去の現実の再現だが、打ち破るべき物質的障害としての壁面でもある。それは、現実の正確な再現であっても想像力が作動して加工された現実であり、忠実な再現としての服従すべき現実ではなく、イメージ化された現実の打倒すべき壁なのだ(だが、その倒壊を印す事実はない)。
このように、過去は再現によって知るほかないが、それが現在につながる糸口を見出し、さらに未来へ向けたメッセージを不可視の想像力の裡に抱懐するとき、作品は、未来を反転された過去として再現するのではなく(そうであれば、未来は過去を反復する同一物である)、未見のイメージとして非再現的に創造するのである。Kostas Stikasの映像作品“Allegory”(1986)*11[広告] VPS
は、やはり未来の知られざるパラダイスを描き出してはいないか。それがあり得ない理想の世界や来るべき未来の現実を提示しているというのではない。周囲を360度取り巻く映像は、現実あるいは可能的現実のどのような内容であれ、無制限の絶対的自由の息吹を送り込む非再現的イメージである(それが非再現なのは、無制限の絶対的自由は指示対象をもたないからだ。その世界を想像できる者は誰もいまい。だが、それは実現不可能ではない)。
そうすれば、以上に挙げた過去の表現は、時代表示通りけっして古いものではなく、またデモのドキュメンタリーも既存の現在(直近の過去)に閉ざされたものではなく、未来に向けて新たな刺激を与え、未聞の試みを仕掛けるかけがえのないチャンスとなるだろう。


では、表現が後ろ向きの再現的なものではないとして、どのような時間的な制約や規定をもつ作品であろうと、それが現実の変革を実効的に働きかける条件とは何だろうか? ここで、J・L・オースティンの言語行為論の「発語」を「表現」に置き換えて敷衍すれば、表現はそれ自体で行為(expression act)である(これを制作の基本に据えたのが、アメリカの抽象表現主義)。だが、表現内行為(その成立条件は主体の意志)でも行為遂行的表現(この成立条件は社会構造)でもなく、表現媒介的行為の条件を問わなければならない。その条件とは、時間軸上で、過去、現在、未来が相互に作用し結合するとはいえ、歴史的な必然ではなく、純粋な偶然である。
しかも、主体が、それに関与することで、逆に拘束されもする時間の絡まりである。表現を媒介して世界に働きかけ、そして状況を変える。そのためには、もはやアートの表現の自律性も、それを保障する制度的な囲いも不要である。それらが、もはや社会性のアートにとっての障害となるからだ(アートを守るべき制度が、なぜ社会的なアートの行動を妨げるのかについての議論は、AB3と対をなす(と私が考える)ベルリン・ビエンナーレの報告に回すことにしたい)。だが、そこには危険な落とし穴が待ち受けている。アートが目標を見失い迷い児になるという不安な行く末が。しかし、今のところ、それを心配して活動を避けるという愚挙は冒さないようにしたい。


具体的に、AB3が構成した過去、現在、未来が絡まり合う交差点をスケッチして、本展評を閉じることにしよう。1階の解説でインデックス機能を活用する表現戦略を紹介したが、4階ではこれを組織的に用いた展示をメインに行っていた。それは、この会場が学校であったことの記憶を掘り起こすことから始められる。過去であれ現在であれ、現実に働きかけるポイントが発見されれば、後はそのポイントを踏み台にして、一気に現在のバネを撓め、未来の行動への跳躍があるばかりである。
展示風景ではっきりと確認できるように、4階のフロアには、奇妙と形容してよいようなインスタレーションが数多く展開されている。その中には、陳列ケースに骸骨や剥製などの標本が並べられたMark Dion & Robert Williamsの作品*12
12+Mark+Dion++Robert+Williams,+Theatrum+Mundi,+2001_convert_20120526202505
があり、それを導きの糸にすれば、他の作品やインスタレーションの意味が明確になってくる。というのも、Dionは、生きた動物や植物も含めて様々な標本を並べることで、アナクロニックな雰囲気を醸すインエスタレーションで名を馳せているからである。
この作品から連想されるように、他のインスタレーションには、会場となったDiplareios Schoolの社会的用途から由来する様々な物品が集められている(とはいえ、Dionのアナクロニズムとは反対の意図が隠されている)。美術工芸学校の教育用の備品(所蔵家具、デッサン用石膏像、工芸品の模型、肖像画*13)
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学生の作品(デザイン、デッサン*14)。
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さらには、ギリシャのモダンを発展させるのに一役買っただろう観光ポスター類*15
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や、ギリシャの富豪オナシスが設立したオリンピック航空の乗務員の制服*16
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といった具合。
その上に、歴史的な事件となるような出来事の簡単な資料写真*17
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や、古代ギリシャ遺跡の重厚なドキュメンタリー*18[広告] VPS
とスポーツ関係の映像資料*19[広告] VPS
が付け加えられて、これらの資料が展示されれば、めでたくモダンの歴史資料館が出来上がる。だが、これらの資料は単に回顧的にギリシャのモダンの歴史を手繰り寄せるために、この学校のコレクションから持ち出されたわけではないだろう。
そうでないことは、これらの物品が元美術工芸学校に属していただけでなく、授業に使われたり、授業の成果として発表されたりしたという生きた歴史に属していたことによって分かる。この事実によって、これらの物品の輝きが俄然増してくる。なぜなら、これらの資料は、博物館に収蔵されて死んだ歴史の無言の証人として放置されるのではなく、現在の状況を作り出した歴史の生きた証人として、進行形の出来事に容喙してくるからである。現在の状況は、過去のこれこれの状況の連続した地続き上にあることを、それらは雄弁に語り出すのである。これが現在の視点から見た過去から、現在に目配せを返す時間の絡まり合いである。かつ、現在の地平から過去を見返すポスターの存在も忘れてはならない(返す刀で、このポスターが未来に思いを馳せることも)*20。
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これらとこれらを包み込むこの建築という生き証人が、アテネとギリシャ全体の間を取り持つインデックスとなる。そのインデックスが、歴史を語り出し、現在に語りかけてくるのだ。そのようにして、展覧会の出品作が、インデックスの連鎖の中で社会との緊密なつながりを取り戻す。しかも、そのパイプの中には、生きた歴史という熱いマグマが現在に向けて還流しているのである。
つながりを自覚しないほうが無理なほど刺激的な情報を与えられ、さらにはそれらの資料的作品に交じって挿入された現代の作品の間を鑑賞者が漂流するとき、過去(作品)から現在(建築)へ、そして未来(外部の現実世界)へと地続きで連続する世界の今を生きる人間が、変革につながる作品になったとしても不思議ではない。実は、社会変革の主体は、AB3を目撃した観客である。


最後になったが、AB3のキュレーターにABの創設者の中の2人、X(Xenia Kalpaktsoglou)とY(Poka-Yio)と並んでNicolas Bourriaudが名前を連ねている。これまで彼の名を出さなかったのは、彼が提唱し1990年代に一世を風靡した「関係性の美学」の影をまったく感じさせないABの内容だったからである。彼の関与が企画になかったと言いたいのではない。「関係性の美学」およびその後の主張の展開が、AB3では当然のごとく下敷きされていて、彼の存在が霞むほどに、今回の展覧会内容が、それを前提とした上で作られた展覧会だということである。関係性は、90年代以降アートの基本的条件となり、現在のアートの常識と化している。さらに踏み込んで言えば、それは時代に関わりなく、どの形態のアートについても言えることである。AB3は、「関係性の美学」を呑み込み、その空虚な形式性を修正しながら、すでに追い越してしまっていたのだ。



【関連コラム】 
・アートにとってデモクラシーとは何か?
AB3が暗黙裡に理想として掲げているように思われるデモクラシーの問題を取り上げたい。現在、とくにギリシャにおいて行き詰まりを迎えている間接的なデモクラシーではなく、より直接的なデモクラシーである。社会性のアートの究極の問い、このアートにとってデモクラシーとは何か? この質問に答えを出すことはできるのか? デモクラシーが誰でもアーティストという、誰でもピカソより性質の悪い答えに逢着するとすれば、アートにとってもっと疎遠な、むしろアートとは矛盾するこの答えに、反動と糾弾されることを受け入れざるを得なくなるのかもしれない(すべての人間に才能があるなら、話は別だが)。ほとんどのアート界の人間が、まともに告白しないにせよ、心に秘めているエリート主義が顔を覗かせる瞬間だ。実はエリートとは名ばかりで、体制に順応して、そのイデオロギーのお先棒を担いでいるにすぎないのだが。なぜなら、エリートはある社会秩序のヒエラルキーによって計測された地位にすぎないからである。アートについても同様で、前衛であれ、古典であればなおさら、エリートは鼻もちならない人間である。自分が優秀であると慢心した人間であり、それを反省する者もいなければ、たしなめる者もいない。というのも、エリート主義が形作られるサークルには、エリートとその取り巻きしかいないからである。止まれ。それでもなおアートにデモクラシーを実現しようとするドンキホーテは生まれるのだろうか? 真のデモクラシーが実現された暁には、アートから消え去る覚悟のあるアーティストはいるのかと問いたい。あるいは、アートにエリートは存在せず、すべての人間がアーティストであると宣言する無名のエガリタリアンのアーティストはいるだろうか?

2012.05.20 | コメント(0) | ビエンナーレ

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