[連載]Biennale Story(9)Istanbul Biennaleの現在地点―2015年、第14回 Istanbul Biennaleを観て

お待たせしました。去年開催されたビエンナーレのなかで一番興味深かった展覧会のレポートです。
新しい展覧会のあり方を告知しているように思われました。

続きはブロマガを購入して楽しもう!
このコンテンツはブロマガ(有料)です。
購入すると続きをお楽しみいただけます。
ブロマガって何?

2016.02.13 | ビエンナーレ

[連載]Biennale Story(8)Venezia Biennale 2015

ブログ・マガジン更新しました。
現在開催中のヴェネツィア・ビエンナーレの展評です。
これから行く予定の方も、残念ながら行けない方も、画像(映像)満載の展評をお楽しみください。

続きはブロマガを購入して楽しもう!
このコンテンツはブロマガ(有料)です。
購入すると続きをお楽しみいただけます。
ブロマガって何?

2015.08.05 | ビエンナーレ

free[連載]Biennale Story(7)Shanghai Biennale 2014

第10回上海ビエンナーレ―政治の季節のなかで(3)




1.上海の印象

私が4年ぶりに訪れた去年12月の上海は、東京より緯度が南にもかかわらず、東京と同じくらいか、それ以上に寒かった。やはり、大陸の気候風土は、島国の日本と比べて半端なくきついのか(そういえば、昔行ったソウルの冬もマイナス10度の厳しさだった)。その上、到着した日はどんよりと低い雲に覆われて憂鬱な気分にさせられた(その気分は、さらに暗くなった。理由は、すぐ後で述べる)。
しかし、都市としての上海は4年前と比較して格段にきれいになっている。地下鉄の電車と駅のホーム、中心の繁華街、そして、そこにいる人たちの生活レベルが明らかに向上し、裕福であることを顕示するかのようなオシャレな洋服の人々が街中を往来していた。ただ一つ気になったのは、地下鉄の改札前に検査用の物々しい機器があり、荷物は必ずそこを潜らせなければならないということだった。現在中国は、政治的に少数民族問題を抱えており、地下鉄のテロを警戒しているのだろう。

DSCF5440.jpg
DSCF5442.jpg
DSCF5444.jpg
DSCF6052.jpg
通路の向こうに荷物検査用の機器がある地下鉄の改札

DSCF5448.jpg
DSCF5452.jpg
DSCF5454.jpg
上海一の繁華街、南京東路の明るく派手な街並み



2.中国の政治状況について

だが今回、上海を訪れて一番驚いたのは、ネット環境の悪さだった。社会的騒乱の導火線になりかねないSNSのツイッターやFB、アメリカの情報の発信源Googleは、まったくアクセスできない。ニュースサイトのYahooやCNNはアクセスできるが、それらが扱うトピックによっては、たとえば現在民主化運動(雨傘革命)で盛り上がっている香港関連のニュースは読むことができない。これらを目の当たりにして、中国にはきめ細かな検閲の網が張り巡らされていることが実感された。
当局による厳しいネット規制があることで、私がブログを編集するのに使っているFC2のホームページまで開くことができず、おかげで上海からリアルタイムでメッセージや写真を発信できなかった。とりあえず使えるネットで調べたところ、中国に在住する日本人が同じ問題にぶち当たるらしく、それらのサイトを使えるよう監視の目を掻い潜るやり方が紹介されていた。そのうちの一つをためすことでSNSは復活したのだが、ブログのほうは上海滞在中ずっと作業できなかった。
日本では、政治も含めてすべての活動が経済中心に動くが、中国では、経済も文化(アート)も政治の意向次第ということなのだろう。政治がアートの優位にある。その実質的な意味は、権力が自由を思いのままに制限するということである。ネットのあからさまな抑圧に直面することで、中国に行く前から抱いていたこのような予感は的中した。
公権力の冷酷なネット対策によって、不都合なことが起こるとは聞いていたのだが、実際にツイッターやFBが使えないとなると、先に言っていたように暗澹とした気分になる。普段、SNSやブログを使い慣れている人なら、私が感じた手足をもがれるような不安は分かってもらえるだろう。
中国は経済的に急速に豊かになっている。しかし、それと引き換えに自由を失っているのではないか。というより豊かになってきたからこそ、それに伴うさらなる自由を民衆は欲するようになったのかもしれない。そのため自由が欠けていると感じる。豊かさを消費するには、それ相応の自由がなければならないというわけだ。
この自由が共産党の独裁体制と鋭く対立し衝突する。その現場が、リアルな世界では香港であり、バーチャルではネットの世界である。リアルな香港の民主化運動は、今や弾圧されて風前の灯火である(私が上海から帰国した後、しばらくして運動は終息した)。インターネットでは、Great Firewallと呼ばれる凄まじい妨害行為(検閲)が横行している。
上海行きの前、香港のアクティヴィスト系のオルタナティヴスペース「活化廳」(Woofer Ten)を率いる李俊峰が来日して、香港の民主化運動の現状について最新の情報をもたらしてくれた。その話を聞いて悲しくなると同時に、どうにかならないのかという苛立ちを感じ、李に疑問を投げ掛けたものの、この中国の現状を直に見るにつけ、李が「雨傘運動は、長い闘いの始まり」と答えたことの意味が痛感された。敵の政府は圧倒的に巨大なのだ(日本にも多数の敵はいるものの、小物で小賢しく陰湿でネチネチしている。こちらも油断できる相手ではないが)。
上海にいると、この権力の無言の圧力をひしひしと感じる。それに対抗して、様々なやり方で抑圧を覆そうとする民衆の蠢きも感じる。アートは、この抑圧と自由のせめぎ合いのなかに投げ入れられているはずだ。上海ビエンナーレは、この政治的状況を背景に、どのような内容を示しているのだろうか?
ところで、私が上海を訪問した12月、日本と中国で1日違いで対照的な政治的イベントに出くわした。
日本で、衆議院選挙(言うまでもないが、期日前投票を済ませた上で上海入りした)が保守派の「圧勝」で幕を閉じた日曜日の前日の土曜日、中国の南京で「南京大虐殺」の追悼式典があったのだ。私は、そのテレビ中継を見ながら、二つの国が、たとえば領有権を巡って戦争状態になった場合、どちらに大義があるだろうかと考えていた。

DSCF6956.jpg
DSCF6953.jpg
DSCF6959.jpg
DSCF6961.jpg

日本は、極東地域の国際政治のなかで惰眠を貪り、大義を考えるどころか、平和ボケならぬ自由ボケに陥っていたのではないか。自由は、なんであれ初めから無条件に備わっているものではない。支配者との苦しい闘争の末に勝ち取られる。ところが日本は、戦後の国際的な権力関係のなかでエアポケットの位置に置かれて、自由がどこにでも自生しているかのように勘違いしてきた。日本人は、あまりにお人好しなのだろうか。だからといって、歴史的に言えば棚からぼた餅の自由を返上して、戦前のように不自由の拘束衣を着けろと言いたいのではない。それでは、日本人は本性的にマゾヒストであるとの指摘を受けても仕方がなかろう(その気は十分あるのだが)。そうではなく、改めて自由を守る決意を固めようと主張したいのだ。香港市民など中国の一部の民衆が抱く政治的意志は、そのような自覚的な決意によって導かれていると、私には思われる。
近い将来、日本が第二次大戦のような侵略を再度試みるとしよう。その場合、この政治的意志に無関心な若者たちは、どう反応するのだろうか? 前回の戦争と同じく政府の命令にやすやすと従い、戦地に赴くのだろうか? だが今回の戦争は、前回と違って途中で止めることはできない。戦火を交える国(中国とはかぎらない)は、今度こそ将来に禍根を残すまいと、日本を徹底的に攻撃するだろうから。



3.上海ビエンナーレ

上海に来るのに4年間のブランクがあったのは、2年前の上海ビエンナーレが、上海万博の期間と重なっていたこと、そして、出展された作品がサイズの巨大なものが多かったという噂を耳にしたからである。万博開催が引き起こすだろう上海市内の不愉快な混雑に巻き込まれたくないのと、作品として物理的な大きさで勝負する展覧会は、その必然性がないかぎりとても好きになれない。ということで、前回は敬遠した。
それから2年。2014年の上海ビエンナーレは、アジアのビエンナーレ・サーキットの掉尾を飾ることになった。実は、今回も大して関心が湧かず、漠然とパスしようかと考えていたのだが、偶々友人から、招待される海外のキュレーターが、2年前の台北ビエンナーレを企画したアンセルム・フランケだと聞き、これは是非行かなければならないと思い直し、上海行きを決めたのだ。フランケの台北ビエンナーレのレポートは、いずれ本ブログの連載に載せるつもりだが、文句なく素晴らしい出来だった。同じ年に開催されたカッセルのドクメンタのように、(規模ははるかに小さいが)よく練り上げられた内容で、私は、フランケ企画の台北ビエンナーレを「ミニ・ドクメンタ」と呼んだほどである。
そのフランケが、今回の上海ビエンナーレのチーフキュレーターに指名されたとあれば、見に来ないわけにはいかない。ということで、2014年も押し迫った12月、11月末に開幕した上海ビエンナーレを訪れることにしたのである。(会期は、2015年3月31日まで)
さて、上海ビエンナーレの会場となったのは、“Power Station of Art”という名前の美術館である。

DSCF5471.jpg
DSCF5473.jpg

ロンドンのテート・モダンと同じく、元火力発電所の宏大な建物を改装して開設されたこの美術館は、前回の2012年より人民広場にあった上海市立美術館(場所的に非常に便利なこの美術館は、多くの市民に惜しまれながら閉館した)から会場を移して、ビエンナーレに使用されるようになったのだ。したがって、私にとっては初めて訪問するスペースである。万博の中国館を、すぐ側を流れる黄浦江の対岸に望めるこの巨大な建造物で開催された今回のビエンナーレのタイトルは、“Social Factoy”である。

DSCF5475.jpg
美術館の壁を覆う垂れ幕を見て分かる通り、この美術館では、別にもう一つの企画展が開かれていたが、それについては後で言及したい。

DSCF6762_20150224065447a84.jpg
Power Station of Artより対岸の万博公園を望む。正面右の建物が元中国館。現在は、人民広場から移転した上海市立美術館を含む複数の美術館が入居している。

2012年の台北ビエンナーレで成功を収め、今回の上海ビエンナーレにチーフキュレーターとして招待されたフランケの企画の首尾は、どうだろうか? 台湾と比べてはるかに地理的に広大な面積、古代文明から続く長大な歴史、世界一の人口(13億以上)を誇る、一党独裁の強圧的な政治体制の社会に、彼の企画は歯が立つのか。それとも、隠然たる政治的圧力が働き、企画のやり方を変えるよう余儀なくされるのか。というのも、社会的リサーチを綿密に行うには物理的にも政治的にも制約がありすぎるだろうから。フランケが、どう上海と中国を料理するのか、興味は尽きない。まさにお手並み拝見というところである。
もちろん、台北と同じ方法を採用する必要はない。とはいえ、台北ビエンナーレが稀に見る優れた展覧会に仕上がったからには、その方法を台湾の対岸にある中国本土に適用して欲しいと思いつつ、私は会場の美術館の門を潜った。
結果として、その期待は良い意味で裏切られた。それを、これから説明していこう。

まず結論から言えば、フランケがキュレーターを務めた台北と上海では、展覧会のタイプが違うということである。フランケが2012年に企画した台北ビエンナーレは、台湾の近代史を丹念にリサーチした上で、その間に収集された多数の資料と、そこから抽出されたいくつかのテーマの下に関連作品を集めて並べ、さらにそこから帰納する普遍的なテーマを共有する作品が、アジアだけでなく広く世界中から選ばれて陳列されるという、重層的な構造になっていたのである。逆から言えば、いくつかのテーマの周囲に、それらと密接に結びつく諸作品と、それ自体が作品である資料が島宇宙のように配置され、台湾と世界を包括する複数の視点を内に含む展覧会として開花したのである。
それに対して、今年の上海ビエンナーレは、展示作品の背景となるリサーチの結果(台北ビエンナーレでは、その資料も展示された)を前面に出すことなく、展覧会タイトルに明示されるテーマに沿って作品を陳列する、見かけはきわめてオーソドックスなタイプの展覧会となっていた。とはいえ、資料などのリサーチの成果は表に出されなかったものの、作品の裏にその前提となる情報が収納されて、作品というテクストの見えないコンテクストになっていることは、展覧会を概観するだけで十分に理解された。
この見えないコンテクストをまとめ上げるコンセプトが、上海ビエンナーレのタイトル“Social Factory”につけられた形容詞のsocialである。この語から推測されるように、展示作品には例外なく「社会的なもの」が籠められ、美術館を訪れる鑑賞者は、一様に作品から社会的意味を読み解くことが求められる。そのための情報を作品の内部から引き出すということでは、作品の表面から紡ぎ出す解釈とは一味違った洞察力が要求される展覧会でもあったろう。しかし、その能力はけっして高いものである必要はない。すぐに事例となる作品を紹介するが、簡単に社会的意味を判読でき、かつその読解を導くコンテクストの輪郭を描くことは難しくないと納得されると思う。
これから、それを例証する作品を挙げていくことにするが、ちょっと迂回して、今回の上海ビエンナーレを特徴づける「社会性」を際立たせるために、他のアートの領域から「社会性」とは対照的な作品を引き合いに出してみたい。しかも、今回の上海訪問で鑑賞された作品である。
それは、上海の代表的なギャラリー街、莫干山路(モーガンシャンルー、略称M50)にある、上海でもっとも有名なギャラリーShanghARTで個展が開かれたXu Zhenの作品である。

P1040431_convert_20150223233506.jpg
P1040436_convert_20150223233715.jpg
P1040432_convert_20150223233557.jpg
P1040469_convert_20150223234316.jpg
P1040468_convert_20150224102228.jpg
P1040478_convert_20150223234719.jpg
P1040480_convert_20150223234408.jpg
P1040483_convert_20150223235017.jpg
以上、"Blissful as Gods"(神々のように至福に包まれて)とタイトルされた作品

Zhenの作品の特徴がフェティッシュであることは容易に理解されるだろう。フェティッシュがZhenの作品に共通するということは、彼の表現のコンセプトがフェティッシュということである。フェティッシュは文化的、経済的な意味はあっても、社会的な意味はない。しかも、彼の作品にあっては、フェティッシュがスペクタクル化されている。たとえば、彼の絵画のグラフィティのような線描は粗暴に見えるかもしれないが、巧妙に計算され洗練されている。また、体内から排出された汚れた液体(フェティッシュ)の拡大されたスペクタクルが壁に掛けられている。あまつさえ、ゼウス像の肩にはフライドチキンが列をなしている……。
実は、Zhenの作品に社会的意味が欠けているわけではない。社会的意味の欠如が、逆説的に社会的なのである。これに対して、上海ビエンナーレの出展作は、気が抜けるほどストレートに社会的だった。
もう一つは、ShangARTの隣にあるノンプロフィットのChronus Art Centerに展示された映像インスタレーションである。
メディア・アートを全身的に体験できる大きな円筒形の装置AVIE(the Advanced Visualisation and Interaction Environment) )を開発したのは、Jeffrey Shawである。この装置によって、スペクタキュラーなイメージの洪水と氾濫に、鑑賞者は巻き込まれる。AVIEでは、いわゆるimmersiveなイメージの空間が生産されているのだ。

[広告] VPS



[上海ビエンナーレ]
では、上海ビエンナーレの出展作の特徴は、どのようなものだったのだろうか?

[1階]
それは、1階のフロアに置かれた作品を見れば、直ちに理解されるだろう。
ビエンナーレの全体を観た印象は、上がったり下がったりとジェットコースターのような気分になる展覧会だったが、そうなったのも、多彩で多様な形式の作品に、ビエンナーレのタイトルにある「社会性」を籠めようとしたからだろう。そうでなければ、この展覧会は「社会性」を生産する「工場」にならないからである。
その典型として、次の映像をまず見ていただきたい。

[広告] VPS

Ken Jacobs, Capitalism: Child Labor, 2006


Jacobsのこの映像は、実験映画風にイメージの加工を施した、場面を反復しながら徐々に進行していく作品だが、その題材が、「資本主義」が利潤追求のために無慈悲に扱ってきた「児童労働」のドキュメンタリー映像だということである。まさに現代的な表現の形式に、社会的な内容が盛り込まれた作品というわけだ。だからといって、彼の作品がダメだと言いたいのではない。まったく逆に、作品として非常に面白く興味深い。それは、現代アートのお手本となるような作品である。興味深いというのは、処理された映像がオリジナルの映像からずれるその仕方が大変スリリングである。
このスリリングな感情を引き起こすメカニズムの詳細な説明をするなら、この作品は、前出のAVIEのような最新テクノロジーとハイテク機器を用いて作られたポジティヴなイメージに、強制的に巻き込まれるタイプの映像作品ではない。なぜなら、反復的に断続するイメージは、断片化されて繋ぎ合わされるイメージと次に来るイメージの間に、不可視だが厳然と存在する断絶=亀裂を生じさせて、鑑賞者の視線が無意識にそのジャンプし、そこから新たなイメージの空間を生成させるからだ。鑑賞者は、不可視の亀裂の欠如に飛び込み、反復=断続するイメージがあふれる、しかし情報量としては貧しい空間に浸るのだ。この作品も、AVIEとは対極的な意味だがimmersiveである。
さらに、この作品が面白いのは、このモダンめかした実験映画風の作品が、実は社会的な批判の道具として使われているからである。普通シリアスな内容の作品(たとえば、この作品のネタとなったドキュメンタリー)なら、このような面白さを体験することはできないし、求められてもいないだろう。作品制作の動機が異なるからだ。ところが、Jacobsの作品では、現代アートのマナーを守りながら、内容への関心をつなぐ配慮が働いている。この表現方法が、ポストモダン以降の現代アートの第一番の関心事であることは言うまでもない。
蛇足だが、私がつまらないと思う作品は、外見的に始めから「社会性」がないか、内容の「社会性」に重要性がない場合である。その一例と思われるかもしれない作品が、Jacobsの隣にあった。だが、この作品も、制作年はモダンアートと見られても当然だが、形式に取り憑く内容に感情が籠められている。

DSCF5582.jpg
DSCF5581.jpg
DSCF5583.jpg
DSCF5584.jpg
1950年代後半から1960年代前半に描かれたTang Changの絵画

これらのChangの作品は、色彩の黒や非幾何学形態のフォルムからして漢字のカリグラフィーの影響を受けていることは間違いないが、同時代のアメリカの抽象表現主義の絵画と、影響関係は不確かだが並走していたとも言える。しかし、彼のこの時代の絵画の特徴は、抽象表現主義の作品にもない圧倒的なマチエールの厚さだろう。Changのフォーマル(色彩と線と形)な分析しか受け付けないと思われる表現様式、アモルファスな抽象的フォルム、崩された文字のような形象の背後に、この絵画のマチエールの物質性が控えていて、その力が内容にまで侵入し、か黒い情念を醸し出すのだ。だからといって、それはけっして表現主義ではない。表現主義は、色彩や筆致に感情を付与するコードが前提とされるが、彼の作品に、そのようなコードは見受けられない。荒々しく見える筆遣いは、荒々しさから感情を解き放つことはないのである。
そうではなく、Changの手つきのマチエールの物質性をさらに掘り下げる執拗さが、内容にまで食い込む力の源泉となる。この作品は、物質的次元を超えて存在論に達していると言えよう。
さらに、この二つの作品の近くには、

DSCF5551.jpg
DSCF5552.jpg
DSCF5553.jpg
DSCF5554.jpg
DSCF5555.jpg
DSCF5556.jpg
DSCF5557.jpg
DSCF5558.jpg
Yun-Fei Ji, Tree of Ancestors, 2014

一目で分かるように、中国の伝統的な水墨画の巻物の様式で描かれた現代(あるいは近代)中国の地方の社会(人々の生活)の模様である。これも、形式として既存の表現様式を借りながら、内容に「社会性」を充填する今回のビエンナーレの戦略を基本的に踏襲していると言えるだろう。この戦略ゆえに、知的と感じられる水墨画、知的で格好良く見える作品である。
このような単純で明確な表現戦略(形式と内容の結合)を採る作品の例として、もう一点挙げるとすれば、

DSCF5644.jpg
DSCF5647.jpg
DSCF5648.jpg
Li Xiafei, Assenbly Line Projects-Unknown Facets, 2014

この作品もまた、抽象彫刻というモダンアートの表現のカテゴリーを借りて、テトラポッドという社会的機能を果たすオブジェが展示会場に鎮座しているのである。ただ、形態はレディメイドの身も蓋もない引用ではなく、最低限だが要素を組み合わせている(単体の作品も置かれているが、それは二つの組み合わせが分解された片割れと見なすべきである)。この作為性のなさが、彫刻概念に含まれるコンポジションの規則を脱構築する。Xiafeiの作品にあっては、彫刻の脱構築とオブジェの構築が同時並行して生起しているのだ。
次に紹介するのは、Stephen Willatsの作品である。

DSCF5683.jpg
DSCF5685.jpg
DSCF5770.jpg
DSCF5686.jpg
DSCF5688.jpgDSCF5696.jpg
DSCF5700.jpg
DSCF5716.jpg
DSCF5721.jpg
DSCF5724.jpg
DSCF5739.jpg
DSCF5747.jpg
DSCF5751.jpg
DSCF5760.jpg
DSCF5764.jpg
Stephen Willats, Diagram Wall, 2008

壁いっぱいに描かれたのは、社会関係やそのシステムをダイヤグラムとして描き出した作品。Willatsは、一貫して社会的なリサーチをアート(視覚表現)で実践してきたアーティストであり、その意味で今回のテーマの展覧会には相応しい。ダイヤグラムというミニマルな幾何学的形態は、やはり最近の現代アートの潮流に乗っているが、彼は以前から自身の表現を入れる容器として、装飾性のないシンプルな形式を採用してきたことを前提にすれば、むしろ時代が形式と内容とも、彼のプロジェクトとその成果の作品に追いついてきたと言えよう。
ミニマル傾向といえば、形式的にシンプルな幾何学的フォルムで構成されたPK Brehmerのドローイングがある。

DSCF5784.jpg
DSCF5785.jpg
DSCF5788.jpg
DSCF5792.jpg
DSCF5795.jpg
PK Brehmer, Soul and Feeling od a Worker(Version 2), 1978‐80

しかし、このフォルムもある統計のデータの可視化から作られたものに他ならない。この場合のデータとは、生産に携わっている労働者の心理状態の統計的データである。Brehmerは、それを時間軸上に色彩の違いと正方形の大きさに変換して描き出してみせた。この作品でも一目瞭然であるように、作品のなかにリサーチの結果が含意されていて、社会的研究によって明らかにされた、作品(テクスト)のマトリックスとなるコンテクストが前提されているのである。
次の作品は、形式と内容のどのような結合を示しているのだろうか? 物質をあけすけに扱う現代アートの作品は、どこにでも転がっている光景だが、この直接的な物質(破れたセメント袋)には象徴的な意味が付随している。これを読み落とせば、この作品は単なるモノ派の作品なってしまう。象徴的意味とは、社会主義以降の社会の在り方を意味する。タイトルのダスト(ゴミ、ほこり、ちり)は、現在の東欧の現実世界を指し示す隠喩となっているのだ。

DSCF5835.jpg
DSCF5837.jpg
DSCF5834.jpg
Mona Vatamanu and Florin Tudor, Dust, 2007/2014 

最後に、1階の展示からもう一点見せよう。この映像作品は、ハンガリーにおける社会主義の理想(頑強な肉体に優秀な精神が宿る)を極限まで探求した若者が精神的破綻に追い込まれる姿を描いたドキュメンタリーであり、この崩壊(社会主義のそれが続いた)が引き起こした歴史的ツケ(後始末)を、現在われわれが払わされている。この展覧会で、アンセルム・フランケが行っている力業のように。

[広告] VPS

[広告] VPS

Peter Dobai, Archaic Torso, 1971

ここで、ビエンナーレ会場の1階に展示された作品についてまとめておこう。上海のコマーシャル・ギャラリーで行われていた展覧会の作品は、先述のように、当然優劣はあるにせよ一様にマーケットを志向していたのに対して、上海ビエンナーレの出品作は、根本的に異なる方向に進んでいる。それらは、表現方法としてミニマリズムor/andコンセプチュアリズムを基準に作品が選ばれているように見える。だが、よく観察すれば、その見かけの類似性とは裏腹に、ミニマリズムor/andコンセプチュアリズムのポジティヴ(実定的)な性格とは正反対の意味をまとっていることに気づく。とはいえ、それはネガティヴ(否定的)というわけでもない。たとえば、展覧会の冒頭に展示されたピアノ作品の〈無〉(後で詳しく説明する)は否定的な意味を持つのではなく、肯定的な意味で〈無〉である。なぜ、ただの無が肯定的になるのか? それは、〈無〉が、イメージ生成の豊かな培地から奇跡的に誕生するからである。
ここまでの説明で予想されるように、今回の上海ビエンナーレの表現の存立構造は、現在のアートのコマーシャル部門を席巻するそれとはまったく異なる。この違いを明確にするために、まずその構造を析出することが容易で、かつ典型的な構造を示している作品を取り上げたい。
この構造を明確に表す作品は、今ビエンナーレで1階のホールの中央に象徴的に置かれて、会場を訪ねる入館者が最初に目にする作品である。
1階の展示でもっとも注目を集めるこの作品は、天井の高いホールの中央に、今回のビエンナーレを象徴するかのように一つぽつりと置かれている。それは、なんの変哲もない一台のピアノであり、電子的な装置を施され一定のインターバルで自動的、断続的にシンプルな曲を反復して演奏する。と同時に、ピアノ後方のスクリーンにピアノ音に合わせて、「实事求是」という文の文字が、一字ずつ投影される。この4字熟語は、「事実に基づき真実を求める」という意味の古くからある格言で、毛沢東や鄧小平に取り上げられて人口に膾炙した。

DSCF5480.jpg
DSCF5484.jpg
DSCF5485.jpg
[広告] VPS

The Truth or: How to teach the Piano Chinese, Peter Abringer and Winfried Ritsch, 2014

この作品のピアノは、コンピューター制御で無人のまま演奏され、その音が通奏低音のように会場の隅々まで断続的に鳴り響く。それが奏でるシンプルで短い曲は、貧相で殺風景な音の連なりに聴こえるけれども、音をポジティヴまたはネガティヴに捉えるのではなく、音と音の間の間隙の無音に注意を傾かせる音楽であることが意識されると、音の欠如(キャプションの説明では「ケージの沈黙ではなく空虚の座」)が、曲の主題となっていることに気づく。この空虚は、そのままでは貧相で殺風景な印象しか脳裏に刻まないが、何がしかの不足を意味すると理解されれば、作品は、欠如を生産する装置となる。この欠如が、シンプルな音の波に乗って、各階の展示室に伝播し拡大していくことで、(これから説明するが)空虚によって召喚されるイメージの波に浸されることになる。
ビエンナーレが開催されている美術館の巨大なスペースが、一つのイメージの空間と化していると言えば、どう思うだろうか。ただし、巨大であれば何でもイメージになるわけではない。物理的に比類なく大きければ、イメージが生まれるわけではないことは自明である。そのようにイメージが生起するには、観念的ではなく具体的にイメージを解発する装置が必要となる。それが、展覧会の入口に置かれた電子的なプリペアード・ピアノの奏でる曲であることは、すでに述べた。この「音調の全体」が、物理的空間に亀裂(音と音の間)を押し開き、その間隙に生まれる欠如=空虚からイメージが湧き出すがままにする……。だが、なぜ欠如=空虚からイメージが吹き上がるのか? それを導くのは、けっして音のポジティヴ(実体的)な存在ではない。かといってネガティヴ(非実体的な)な不在でもなく、ポジティヴとポジティヴの間の無音が、音の否定ではなく存在の無として意識されるとき、その無がイメージへと生成するのである。
そのメカニズムは、こうである。無はそれ自体では知覚されない。が、ないと意識したとき、無が概念に吸収されることなく、音と音の間で無の感覚的イメージとなる。この無は想像的に感じ取られるが、無であるがゆえに存在しない(とはいえ、概念に収斂する不在の消極的規定ではない)。この存在しない無のイメージを、〈無〉と呼ぶことにしたい。この〈無〉は、実在的にはないが想像的にはある。ということは、形式的に無はないのに内容的に無がある。形式はあるのだが内容はなにもないと言い換えてもよい。つまり、中身がなにもないのに亀裂の縁に沿って無はあるのだ。これで、内容のない形式のイメージに、多様な意味が書き込まれる準備が整えられる。そのような不可視の掴みどころのない無のイメージ=イメージの無から、無の形式に意味を注入する無のイメージ=イメージの有への転倒が起こる。なにがイメージの意味として充填されるのか? それが、すでにいくつか例を挙げたビエンナーレの展示作自体である。
だが、この展覧会のなかで、ピアノ作品だけが〈無〉の産出装置として機能しているのではない。その他の各作品にも、この〈無〉を発生させる契機が埋め込まれていて、響き渡るピアノの音色と照応しながら、無のイメージを増幅していることを忘れてはならない。
たとえば、これまでに紹介した1階の作品にも、〈無〉を湧き出させる仕掛けがあった。記号論的に分析すれば、各表現は、シニフィアンにおけるアートのパラダイム性と、シニフィエにおける社会性を結合している。しかし、そのシニフィアンとシニフィエの間に、ピアノと同じように亀裂が生じているのだ。この亀裂が、ピアノの作品と同じプロセスを辿って〈無〉を生成させる。こうなれば、ピアノの音と音の「間」と、各作品のシニフィアンとシニフィエの「間」が共鳴して、より大きなイメージを生産することを期待できるだろう。このイメージの内容が、表現のシニフィエの「社会的なもの」であることはしっかりと確認しておきたい。


[2階]
以上に記述したのが、ビエンナーレ会場の1階部分に置かれた作品についての私の解釈だった。次に、2階と3階に展示された作品についての説明に入ろう(実は、読み進めばすぐ分かるように、展示作品のすべてを取り上げたわけではない。それは1階の作品の場合と同じである。今回のビエンナーレで重要と思われる作品のみに焦点を当て、企画の根幹と私が考える展覧会のコンセプトを明確することに努めた)。それらの表現の構造は、展覧会の核となる1階のピアノ作品の音楽と呼応し絡まり合いながら、どのような効果を生み出していたのだろうか?
まず、2階に陳列された作品からピックアップする。そのなかでとくに目立ったのは、ドキュメンタリーを基本的な方法とする一群の作品だった。他の階と比べて、その類の作品の数が多く、また1階の作品を検討するさい、展覧会全体を包み込むイメージの構造との対応が重要な契機であったのと同じく、しかし1階とは違った意味で特異な位置づけをされるこのドキュメンタリー作品を中心に、2階の展示作について解説してみたい。
ところでドキュメンタリーを論じるとき、真っ先に注目すべき分析の視座となるのは、虚構と事実の違いである。それは、一般に決定的な相違と考えられて、しばしばドキュメンタリーを、虚構を本質とするアートから分離し、展覧会から排除する強力な論拠となってきた。しかし、すでにドキュメンタリーが様々な構成上の演出によって作られていることを知っている現代アートの世界では、普通に他の虚構的な作品に混じって、ドキュメンタリー作品を出展するようになった。したがって、ここで議論したいのは、決着のついているドキュメンタリーに対する虚構性と事実性の区別の偽の問題ではない。ドキュメンタリーには虚構が避けがたく混入しており、事実と分かちがたく溶け合っているというのが、その模範解答である。
そういうわけで、ここで提起されるドキュメンタリーに関する問題とは、表現を内在的あるいは制作論的に吟味しなおすことで浮かび上がる、表現(内容)と事実(素材)との間の落差(ギャップ)のことである。実際、上海ビエンナーレの2階に展示されたドキュメンタリー的な作品(見かけはドキュメンタリーであろうと、アートとしてのドキュメンタリーとは何かを調べている段階では、ドキュメンタリーと断定せずドキュメンタリー的と言っておく)は、そのような疑問を抱かされるもので占められていた。
しかし、その前に問いとして投げかけたいのは、表現と事実の違いとは何かということである。すぐ思い浮かぶ回答は、主観的要素が作品のなかにあるかないかである。分かりやすいアートの例としては、20世紀初めに現れたドイツ表現主義のように、感情的な意味を強烈に放つ色彩や筆致という造形的要素がある。そのような意図的な構成の証拠や痕跡のあることが、表現的であることの必要条件とされてきた。したがって、作品という諸要素の構成物は、事実と対極の非現実すなわち虚構である必要はまったくない。つまりドキュメンタリーのケースでも、そこに主観的要素が含まれていれば、立派に表現に組み入れられることになる。それは、しばしばドキュメンタリーの映像に作者の感情的なナレーションが被さったり、作者本人が重要な人物として登場したり、手持ちのカメラで撮影した画面が不規則に揺れたりすることで確認される。
だが、ドキュメンタリーは主観的要素のみで構成されることはない。むしろ、主観的なものを極力抑えて対象を突き放し、客観視することに細心の注意を払うことが、ドキュメンタリーの厳格な作法とされ、貴重な美徳とされてきた。たとえば、アメリカのドキュメンタリー作家、フレデリック・ワイズマンの客観性を徹底し保持する立場への人々の尊敬や憧れは強い。それはそれでドキュメンタリーの鑑として素晴らしいことだが、主観と客観という、これまた虚構と事実の区別と同じほど怪しげな分類が前提での制作の産物となれば、ドキュメンタリーは純粋な客観の境地に留まることはできないと結論されるだろう。ここで、表現と事実の区別は、主観と客観の境界の曖昧さによって不確かになり、そのため表現と事実の間に隔たりが生じて、その埋められない距離にドキュメンタリー的な作品が取り憑かれるといった忌まわしい事態に逢着するのである。主観と客観が峻別できれば、表現と事実は完璧に切り離され、それぞれ別々のカテゴリーに配属されて相互にぶつかることなく安穏な一生を送られる。そうであれば、ドキュメンタリーは表現ではないというお墨付きを与えられる。
しかし、主観と客観の区分の中途半端さが、ドキュメンタリー的な作品をして、表現と事実のギャップ(亀裂)を乗り越えられないにせよ、鋭く意識させる。このギャップにつけ込んで、1階の作品の形式と内容の亀裂の際に生じたのと同じ作用が働く。ギャップのなかにある欠如=空虚が無の意識を喚起し、そこから無のイメージ=〈無〉を湧出させるのだ。具体的に作品に当たって、その様子を確認しよう。

DSCF6456.jpg
DSCF6341_20150302012616506.jpg
DSCF6342.jpg
DSCF6261.jpg
DSCF6266.jpg
DSCF6272.jpg
DSCF6279.jpg
DSCF6291.jpg
DSCF6296.jpg
DSCF6305.jpg
DSCF6316.jpg
DSCF6322.jpg
DSCF6326.jpg
David Crook, Isabel Crook, The Ten Miles Inn―Archive Project, 1947-48

この二人の作者は、社会学的リサーチあるいは社会人類学のフィールドワークの場所として、40年代の中国の農村を選択した。そこから得られた様々な貴重な資料(写真や記録のメモ)が、ガラスケースのなかに収められている。これだけなら、美術館ではなくどこかの民俗学博物館で展示されればよいと思うかもしれない。だが、これが美術館に展示されていることが重要な鍵なのである。そのことが、事実の集積としての資料を表現に持ち上げる力を注入する。
美術館(ここではビエンナーレ会場)に置かれることで、デュシャンの言うように制度的な支持により作品となる前に、アート的な表現のステータスを無条件で与えられる。とはいえ、事実が表現になるには、先述したように一定の距離があり、それを乗り越えなければならないが、乗り越えることは困難である。だが、鑑賞のシステムが心理的な助け舟を出してくれる。その隔たりが欠如=空虚として鑑賞者の意識に働きかけ、無のイメージを生成させるのだ。このイメージは作品としての資料の手前に発生するだろう。鑑賞者は、資料との距離の大きさを実感して立ち止まり、ある意味途方に暮れるが、主体(鑑賞者)と対象(資料)との間に深い亀裂があり、それが逆転の発想を引き起こすと確信するに至るのである。
同様のことが、農業生産を取材したドキュメンタリー作品(ヴィデオ、資料)でも経験される。

DSCF6042.jpg
DSCF6024.jpg
DSCF6032.jpg
DSCF6033.jpg
DSCF6035.jpg
DSCF6026_20150302014801cdb.jpg
DSCF6030.jpg
[広告] VPS

[広告] VPS

[広告] VPS

[広告] VPS

Keywords Lab / Xu Tan, Questions, Soil and "Socio-Botanic", 2013-14

この作品では、中国社会において農業の問題(とくに種子の重要性)を考えるというコンセプトの下、研究者や農業従事者へのインタヴューや、農作業を観察したヴィデオ、そして調査結果の資料を並べて、テーマにアプローチする手法が採られている。このような科学的客観的方法で得られる情報やデータをどのように作品として捉えるかに、先述した表現と事実の落差(ギャップ)が意識的でなければ無意識に介入する。鑑賞者は、これらのヴィデオや資料を見たり読んだりしていくなかで、いつしか無のイメージの世界で社会問題に接していることに気づくのである。それは、いずれ学習に近いプロセスになるだろう。
落差についてさらに敷衍すれば、事実が自然である場合はどうだろうか? Trevor Yeungは、植物そのものを作品として呈示している。このアルテ・ポーヴェラ風の作品は、植物の生態に、Yeungがフォーカスする人間と人間が作る社会を投影する意図を籠めている。それゆえ、作品に使われる植物は、様々な制約を課せられて自由に枝葉を伸ばすことができない。美しいアーケイドが作られようとしているかに見える植物の植生は、巧妙に人工的な管理の下に置かれているのだ。
この一見自然と見える事実に、表現はギャップを用意し秘匿していた。作者自身が、ギャップを逆利用したと言えばよいか。もちろん、アーティストはギャップからイメージを導き出そうとしたわけではないだろう。しかし、ギャップを意識的に利用(自然と思われるものが、自然ではなく巧妙に仕掛けられた人工の罠である)することで、そのギャップの空虚を埋める社会的な管理の実態をイメージとして提供することに成功している。以後、この作品は単なる物質的な有機体ではなくなり、社会的なイメージとして社会に通用するのだ。

DSCF6038.jpg
DSCF6041.jpg
DSCF6039.jpg
DSCF6040.jpg
DSCF6044_2015030203193450e.jpg
Trevor Young, Maracuja Road, 2014

次に、このフロアに設置された映像の作品について考えてみたい。
Sharon Lockhartの子供たちの生態を描いた作品は、登場する子供たちに演技の指導はしていないという意味で、やはりドキュメンタリーのカテゴリーに入れられるだろう。しかしここでも、映像をずっと見ている間に表現と事実との距離が生じていることに気づく。子供を見ているとLockhartが子供好きであることが画面から強く伝わってくるが、単なる子供好きのアーティストではない。たしかにアーティストが、子供のように無邪気である場合は多い。子供に感情移入するアーティストもかなりいる。
しかし、Lockhartは、そこで終わることはない。子供がアーティストの愛玩物になるのではなく、子供の遊びを通して、彼らが世界のどのような場所も自分たちの遊び場にすることを、雄弁にしかし静寂のうちに示しているのだ。静けさのうちに指し示すのは、アートの秘密を彼女が知っているからである。遊びはアートの原点である。この遊びが、これまで長々と説明してきた表現の又の名である。表現することは遊び、しかも世界を乗っ取りかねない危険な遊びなのだ。表現が世界をアートに巻き込み、そして世界を変更することがあるのは、そのためである。

[広告] VPS

[広告] VPS

Sharon Lockhart, Podworka, 2009

Lockhartの作品と同じことが、Li Xiuqinのヴィデオの盲目の人々とアートの関係でも起きていた。シャロンの子供の遊びではないが、盲目の人間が、まさに社会とアートの結節点となっている。

[広告] VPS

DSCF6435_20150302050532788.jpg
DSCF6437.jpg
Li Xiuqin, Touch and image, 2013

ヴィデオではっきり分かるように、モデルとなる盲目の人間が、互いの頭部の塑像を作る。彼らのジェスチャーから、素材を通して表現しようとする意志が垣間見える。作品は、盲目の人間に彫刻を作らせようとする興味本位でも、盲目の人間がアートに親しむことを支援する善意のNPOの紹介でもない。アートと社会の結節点に盲目の人間がいて、作品が生まれるといった単純な事実だ。つまり、アートのなかに社会的関係(健常者との社会的関係)が畳み込まれている。社会という事実的世界とアートという表現を代表する、盲目の人間と粘土の塑像の関係は、その間の距離をつなぐ=落差を埋めるイメージ(盲目の人間が塑像を作る=touch and image)を生成することによって贖われるのだ。
以上のようなドキュメンタリーではないが、やはり事実と表現の関係を考察するのに興味深い手がかりを与えてくれるヴィデオ作品がある。

[広告] VPS

[広告] VPS

[広告] VPS

Ho Tzu Nyen, (Black to Comm), 2009-12

奇怪に幻想的な雰囲気の暗闇のなかに、眠りから覚めようとして再び眠りへと戻る人間たちがいる。これは、意識が事実から表現へともたらされようとしながら、また事実に舞い戻るといった紆余曲折を暗示する作品ではないか。
2階の作品の最後に、このフロアで一番目立つ広い場所を占有したインスタレーション作品を取り上げたい。
電話がずらりと並ぶこの作品を、どう解釈すればよいだろうか? これもまた、事実と表現の時間的な距離を克服する手段として電話を用いた作品と考えられよう。電話を通じて伝達されるのは、1990年代に発信され、その時代を彩った様々な文化的なメッセージである。その時代を風靡した音楽や言説が電話で伝えられるとき、時間的ギャップを乗り越えて、過去の事実から現在に向けてメッセージがもたらされる。すでに、それだけで表現が成立しているが、それが時空のギャップとして意識されることで、表現がイメージとして鑑賞者の眼前に繰り広げられるのだ。その表現とは、現代に蘇った1990年代のアートである。ただし、それが現実に過ぎ去ったものである以上、不可視のイメージに留まるのだが。

DSCF6408_2015030206360570f.jpg
DSCF6406.jpg
DSCF6407_20150302063606762.jpg
DSCF6405.jpg
Liu Ding, 1999, 2014


[3階]
ビエンナーレの展示会場の3階には、外在的に分析すれば、指示対象の社会的なものを前提として、表現へとベクトルが向けられる作品が並んでいた。2階の展示は、ドキュメンタリー的な作品が多かったが、それが対象の事実性を素材にするとはいえ、すでに表現の資格を与えられていることから生じる内的な齟齬を、表現の原動力(表現からいかに素材の事実に志向するかというギャップに変換)にしていたのに対して、3階は、反対に主題となる対象がすでにアートと呼べる力を有するものであり、それを作品においてどのように表現と関連づけるか、そのやり方に注意が集まる。その上で、対象の事実と表現との間にズレや懸隔が生じることが自覚されて、そこにイメージが見出されることになる。その検証を、いくつかの作品を取り上げながら試みることにする。2階に置かれた作品が、表現→事実(素材)というベクトル構造だったのに対して、3階の作品のその構造は、表現←事実(素材)であることを証明してみよう。
まず、中国における社会主義運動の息吹を今に伝える木版画のポスターから始める。対象となる民衆の革命運動の途方もない力強さが、すでにアートとしての資格(生の肯定)を備えている。その力が、木版画という表現を突き破って鑑賞者に魂を高揚させる眩惑的なイメージを提供している。

DSCF6511.jpg
DSCF6513_20150302201236abd.jpg
DSCF6528.jpg
DSCF6535.jpg
DSCF6540.jpg
DSCF6547_20150302194804286.jpg
DSCF6546_20150302201010256.jpg
DSCF6559.jpg
DSCF6565_20150302194807e36.jpg
To the Front: Performative Scene for Modern Woodcut Mouvement

では、次に呈示する映像作品の場合はどうか?

[広告] VPS

Tivor Hajas, Self Fashon Show, 1976

旧社会主義時代の東欧で、ストリート・ファッションショーが行われた。それだけで、奇跡的に刺激的な事件ではないか。70年代のハンガリーでの出来事である。素材のストリート・アートを映像の内容に取り込むには、社会主義時代の検閲や抑圧を掻い潜らなければならなかったことは、容易に推測できる。対象のアートが表現へともたらされるには、様々な政治的な障害を取り除かなければならなかったのだ。したがって、この映像に漲るのは、映像の背後に漂うただならぬ緊張感である。それが、画面に映った市民のファッションの素朴な謳歌を、英雄的な行動に仕立てる。このストリート・ファッションをイメージに励起したのは、市民の自由への欲望である。映像の表現は、この欲望を捉え損ねることで対象からズレることになるが、そのことで逆にイメージを呼び込み、作品に類稀な魅力を付与するのである。
さて、3階のフロアの最後に紹介するのは、Peter Friedleの"Playgrounds"と題されたスライド作品である。

[広告] VPS
[広告] VPS

Peter Friedl, Playgrounds, 1994-2014

このスライドショーは、世界中にある「遊び場」を撮影した写真を投影した作品であり、そのなかに日本の「遊び場」も含まれている。この淡々と無表情に入れ替わる子供のための施設の風景が興味を惹くのは、先に紹介したLockhartの"Podworka"の正反対に位置する作品だからである。Lochkhartの映像が、子供たちの遊びを主題にしていたのと同じように、Friedlも子供の遊びをテーマにしている。というか、しようとしている。ところが、Lockhartが子供の遊びを実際に撮影しているの対して、Friedlのほうは、整備された「遊び場」(Lockhartの映像にそれはない。子供はどこであれ、遊ぶ場所を「遊び場」にしてしまうのだ)はあっても、子供がいないので子供の遊びもない(まったく無人か、子供がいても遊びに夢中になっているようには見えない)。
この意味するところは、Lockhartが表現の側から子供の遊びがどのような素材の対象であるかを探求しようと試みた(したがって、Lockhartの作品には遊び場は不要である)。その結果、幸運にも対象(素材)が表現と結びついて見事な作品になったのに対して、Friedlは、もはや表現すべき素材(子供の遊び)がない。子供のいない空虚な遊び場だけが繰り返されて映される。そこには、対象から表現に到達するもの(アート)がない。しかし、素材と表現との間のこの絶対的な懸隔が、表現に最強度のイメージを呼び込む。このようにして生起するイメージの強度は、素材(対象)と表現との距離によって計測されるのである。



結論:ビエンナーレ総評(箇条書きで)

1. 上海ビエンナーレは、関連する資料が作品とは別に会場に飾られていた台北ビエンナーレとは違って、コンテクストとなるデータや情報が、作品に予めビルドインされていて顕在化されない。会場の1階の作品は、ビルドインされた情報が表現の前提になっている。2階のドキュメンタリー的作品は、それが作品自体に付属する資料であり、3階は、表現の対象がその機能を果たしていた。

2. 各階で、その構造が異なる、横糸としてのイメージ製造装置。さらに1階の中央に置かれたピアノの奏でる音楽が、各階のイメージ生産に照応し、それを強化しながら、〈無〉の形式を展覧会全体に浸透させていく。この音楽が、本展評では言及しなかった他の作品を包摂していることを付け加えておきたい。この不可視の装置の所在が、冒頭で述べたPower Station of Artのビエンナーレ会場の階上で、同時に開催された若手キュレーターによるいくつかの企画展には決定的に欠けていたものである。展覧会を包括するそのような構造がないことで、展示の全体に緊張感と締まりがなく、作品のガサツさばかりが目立つことになったのである。もちろん、若手なのでそこまで配慮できないのは仕方がないが。

DSCF6660.jpg
DSCF6661.jpg
DSCF6768.jpg
若手キュレーターによる企画展の展示風景

3. 各階を貫く縦糸として、内容の「社会性」。それについては、各階の展示で詳細に言及したので繰り返すことはしない。

以上、2と3から、アンセルム・フランケがチーフキュレーターを務めた今回の上海ビエンナーレは、「社会工場」と呼ぶに相応しい手ごたえ十分の展覧会に仕上がったと言えるだろう。

テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

2015.03.03 | コメント(0) | ビエンナーレ

[連載]Biennale Story(6) Taipei Biennale & Mediacity Seoul 2014

お待たせしました。遅れましたが、10月二回目の配信です。
今回は、台北ビエンナーレとメディアシティ・ソウルのレポートです。
前回の光州(カンジュ)ビエンナーレ同様、東アジアのアートシーンが、どのような状況にあるのかを、多くの図版とともに解説しました。
なお、本号は10月号(2)ですので、10月のブログマガジンをすでに購入している方は、無料で読むことができます。

続きはブロマガを購入して楽しもう!
このコンテンツはブロマガ(有料)です。
購入すると続きをお楽しみいただけます。
ブロマガって何?

2014.10.25 | ビエンナーレ

[連載]Biennale Story(5) 光州ビエンナーレ 2014

10月のブログマガジンで取り上げるのは、東アジアで2年毎に開催される複数のビエンナーレです。それらが、9月一斉に開幕しました。
ブログマガジンの第1弾は、光州(カンジュ)、そして次回、台北、ソウルと続きます。日本にもっとも近いアジアの地区で行われる、世界の最先端をいく活気あるビエンナーレのレポートをお楽しみください(小見出しの数字は、ビエンナーレを私が訪ねた日付けです)。

続きはブロマガを購入して楽しもう!
このコンテンツはブロマガ(有料)です。
購入すると続きをお楽しみいただけます。
ブロマガって何?

2014.10.12 | ビエンナーレ

«   |  ホーム  |   »

Art in Action ブログについて

美術評論家、市原研太郎の主宰する現代アート研究室Art-in-Actionが発刊するブログマガジン

「ブロマガ」とは
「ブロマガ」購読方法

お問い合わせ

・ブロマガの購読・課金に関するお問い合わせはFC2サポートまでお願いいたします。
・記事の内容に関するお問い合わせはArt in Actionまで。

ブロマガ

月刊ブロマガ価格:¥ 500

紹介文:グローバルに拡大した現代アートのアーカイヴ作りと、そのアクチュアルな活動の見取り図を描くことを目的に、Art-in-Actionと名付けた現代アートのブログを立ち上げました。その取材に役立てるべくやむを得ず有料にしましたが、読者の方々の期待に答えられるよう努力を継続していきますので、よろしくお願いします。

ブロマガ記事一覧

購入したコンテンツは、期限なしに閲覧いただけます。

カレンダー

11 | 2018/12 | 01
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

検索フォーム