free 展覧会へのコメント (2014年12月、2015年1月、2月)

展覧会へのコメント(2014年12月、2015年1月、2月)



12月に訪れた上海のアートシーンの一部を紹介しよう。

"Approaching Zero" Gao Ruyun個展(M Art Center、11月29日~12月31日)

上海のマーケット志向の作品が多いなかで、表現を最小限の要素に還元し、背景の白い環境に溶け込むことを狙った(Approaching Zeroの意味?)かのような作品は珍しい。

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"Mr.Hungry" Tang Dixin個展(Aike-Dellarco、11月14日~12月14日)

ギャラリーの白壁をロッククライミングで登攀するアーティスト。壁には、その模様を撮影したヴィデオと、その痕跡。このようなパフォーマンスの作品も、以前はコマーシャルギャラリー(コマーシャル以外では、中国のパフォーマンスは反体制派の活動としてつとに有名)に飾られることはなかったが。

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"Fat Mouse" Yu Honglei個展(Antenna Space、11月8日~2015年1月15日)

文字通りのシミュラークル(というより複製?)とポップ(形態と色彩)で、現代アートは決まり(そして売れる)と思い込んでいる中国の典型的なギャラリーで展示された作品。

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"In Memory of a Landscape"展(James Cohan Gallery、11月13日~12月31日)

ニューヨークにもスペースのあるJames Cohanの上海のスペースでは、Shi Zhengの企画による「風景の記憶」というタイトルの3人展が開かれていた。

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以上、Chen Yujun

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以上、Huang Yuxing

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以上、Yuan Yuan


i-Gu Changwei’s Contemporary Art Exhibition(Museum of Contemporary Art Shanghai、11月13日~2015年3月31日)

人民公園のなかにあるMOCA上海で開催されたのが、映画監督チャン・イーモウやチェン・カイコーと同期の撮影監督にして映画監督、Gu Changwei(クー・チャンウェイ)の個展。
普段は誰も注目しない紙幣の細部を撮影し拡大した写真は、微妙な色調の変化も見逃すまいとする客観性への意志を感じさせる。客観性への意志は、都市の風景を、刻々と時間をカウントしながら撮影した映像作品にも感じられる。Ai Weiweiに同じような都市の風景を撮影したドキュメンタリー映像があるが、Weiweiが中国の現在の繁栄とその代償を都市の活動を通して指摘しようとしたのとは違って、Changweiの場合は、都市の風景の客観化への憧れがひたすら強い。しかし、そのように客観への意志が強まれば強まるほど、感情表白への欲望が高まることを見逃してはならない。Changweiの視線は、客観と感情が乖離する狭間でたゆたっているのだ。彼にとって、デジタルは客観性への傾倒、ピクセルは客観性の保証、赤は情感の表出を意味しているだろう。

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Ugo Rondinone "Breathe Walk Die"展(Rockbund Art Museum、9月13日~2015年1月4日)

美術館の壁がレインボーカラーに彩られた全4階の展示室を使って行われたUgo Rondinoneの個展。各階に道化が無為に横になっていて、生活が急激に豊かになり目まぐるしく移り変わる上海に対して、焦らず急がず、もっとゆっくりのんびりやろうよと無言のうちに諭しているかのようだ。
展覧会のタイトルで言えば、Breatheが、道化のこの状態に当てはまる。では、WalkとDieは、どこにあるのか? もちろん、道化はいつまでも寝ているわけにはいかない。美術館は彼らのもの(彼らは雇われている)ではないからだ。いつか立ち上がって「歩」き出さなければならない。そして、美術館の外に出て、どんなにおとなしく静かにしていても、時間が経てば「死」ぬ。
道化役の人間は美術館内で動かなくてよいとはいえ、現実的には労働している。この作品で明らかなように、レジャーとしてのアート(道化を見る観客を参照)と、労働者の世界(道化の衣装を着た人間)の次元の違いは歴然としている。しかし、アートは労働者同様、現実に属しているので、この違いは同一の世界に属する。それが社会的矛盾となる。この矛盾を、アートはあくまでレジャーであると押し通して、しらばっくれるのか? それとも、反省的に労働問題に注意を向けるのか? この作品が、そのきっかけ(道化たちの労働価値よりはるかに高い商品価値を有するこの作品への素朴な疑問)になることはできるか?

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Fang Wei "Assasin"展(BANK、11月15日~2015年1月11日)

歴史的建築に指定されている建物のなかにあるギャラリーBANKで開催されていたのが、Fang Weiの絵画展。
新・新表現主義絵画。情念的・内臓的と言えばよいか。

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Wang Dawei 新作展(FQ Projects、11月23日~2015年1月16日)

大通りから裏町の住宅街に入ったところにある長屋の一軒を改造したギャラリー。初めての人には、見つけるのが難しい。

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ギャラリーから出たところで、近所の犬に吠えられました。



「秋山幸 | 密林の絨毯」展(実家 Jikka、2014年11月22日~12月14日)

秋山幸の絵画に横溢する素朴さを目の当たりにして、それを的確に説明する言葉が浮かばないことに、いつももどかしさを感じる。今回もそうだった。素朴さが洗練に通じているのだ、洗練とはいえ、素朴さが複雑な経路をたどって洗練に至る反対物の統一ではない。また、ヘタウマのようにフリをする媚態で気を引こうとするのでもない。簡単に稚拙と言うこともできない。稚拙というなら、それが一気に洗練に接合される素朴さであるに違いない。それは、素朴さが聖性(とはいえ超越的審級のない)に包まれる瞬間なのだ。目撃する人によっては、それを洗練と呼びたくなるのではないだろうか。

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ブリジストン美術館 コレクション展

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FBで紹介済みのウィレム・デ・クーニング展を鑑賞した後、ブリジストン美術館に併設されたコレクション展を観る機会があり、気になる感想を得たので、ここに記しておく。
ブリジストン美術館のコレクションである19世紀リアリスム絵画以降の絵画を観て回って、ある疑問が湧いた。作品の数が少ないのとクオリティが低いのは、他の日本の美術館と同じなので不満は投げかけないことにするが、モダンのマスターと呼ばれる画家の作品を見ていて、高揚感がないどころか、どうしても入れ込むことができない。作品のクオリティの問題だろうか? 何回も会場を行ったり来たりしてはたと気づいたのは、ザオ・ウォキーと堂本尚郎の特別展示を見ていたとき、彼らの作品が抽象でありながらイリュージョン(再現的イメージ)を最終的なよりどころにしているのではないかということだった。そのような観点をとらなければ彼らの作品が良いと思えない。そのイリュージョンは、彼らの画面では絵の具のマチエールの余白に生じているのだが、その理由は、となりの展示室に陳列されたスーラージュ同様、イリュージョンを排除する抽象画にあって密かにイリュージョンが再導入されていることだろう(デ・クーニングに代表されるアメリカの抽象表現主義が、イリュージョンとの闘いに命を懸けたことを、この美術館の企画展で確かめられたことは皮肉だった)。しかし、彼ら(ウォキーと堂本)は、表現の矛盾に妥協してそれを等閑にしてしまったのではないか。この矛盾が、鑑賞者をしてマチエールかイリュージョンかのどちらかに視覚の焦点を合わせようとする空しい努力を促す。その結果、マチエールを選択した私は、印象派などの具象画まで、イリュージョンではなくマチエールに偏った見方をせざるを得なかったのだ。その見方は、展示室に一点飾られたポロックの絵画にまで影響を及ぼした。レアリスムや印象派、ポスト印象派を、単なるマチエール(物質的素材)に焦点を合わせて鑑賞することは、悲惨な結果を招く。それだけではない。20世紀の抽象画をマチエールをリテラルに捉えると、文字通り絵画を破壊してしまう(それが分からない人間がいること自体大問題なのだが)。抽象画こそ、イリュージョン(再現的イメージ)ではなく、イマジネーション(想像力)を最大限に働かさなければならず、そうでなければ抽象的フォルムの素晴らしさを堪能することができないというのに(その端緒となる画家がポロックであることを、念のため述べておく)。私が観た収蔵品展は、このイマジネーションを働かせるのに困難な展示の仕方をしたのではないかと勘繰りたくなる。同じ系列の久留米の石橋美術館が、非常に美しい展示であるのとは対照的に、東京のブリジストン美術館の展示は、見れば見るほど暗鬱になってくる。イマジネーションを殺すような展示をわざわざしているように見えるからだ。過剰なイマジネーションが危険であると、美術館が気づいているのだろうか。実は、イマジネーションは未来に向けて世界観を差し出すことを付帯的な力能としている。しかし、このイマジネーションの変革への志向を快く思わない勢力がいる。まさにアートが思想的に曲解されて体制に組み込まれる最悪の例が、ここにはある。欧米でさえ、ここまで反動的ではない。というのも、欧米はモダンアートにモダンの思想を反映させているが、日本はモダンを模倣するというプレモダンの思想(封建的主従関係に奉仕)を作品に反映させることを要求したので、このような矛盾を呼び寄せてしまったのである。そこにあるのは、モダンの物質主義をプレモダンのイリュージョン=表象で実現するという離れ業である。結果は、見るからに苦しげなリテラルな物質の認識と、それに起因する表現のスケールの小ささである。モダンの革命を苦々しく思う支配層の人間(日本の支配層は、モダニストを装うプレモダニスト)がいる。そのような人間がモダンアートに魅せられる場合、モダンアートからその革命的要素を抜き取ってしまう(現在では、ポストモダンからその革命的要素を抜き取って、単なる伝統回帰の反動になる)。それが、イマジネーションなき展覧会へと帰結する。スーラージュほど、この役目を忠実に、そして欺瞞的に果たす適任者はいない。イリュージョンを排除すると称して、アートにとって生命線となるイマジネーションまで追放してしまうのだ(というより、イマジネーションというアーティストにとって不可欠の能力がないのだ)。イリュージョンは、20世紀後半、抽象表現主義以降の戦後のアメリカのモダンアートによって排除された(フランク・ステラやリチャード・セラの作品を見よ)。彼らが、その代わりにイマジネーションの重要性を主張してきたにもかかわらず、それを無視し、イマジネーションをイリュージョンと故意に取り違えて排除すると宣言する。その舌の乾かぬうちに密かにイリュージョンを復活させてしまう(スーラージュの黒のモノクロームの作品を見よ。モノクロによるイリュージョンの追放と、光の反射による裏口からその再導入が、正々堂々と行われている)。この小賢しいトリックが、作品のスケールをモダンの初期の具象画にまで遡って収縮させてしまう。ブリジストン美術館という一般に少なからず影響力のある施設の展示の思想的偏向を見るにつけ、日本のアートがきわめて憂慮すべき状況にあることを知り暗澹たる思いになる。
このような見方が成立するのも、モダンの初期の具象画をイリュージョンではなくマチエールの集合として捉えてしまったからではないのか?



泉太郎 「合同ピ、解放ポ」展(Take Ninagawa、2014年11月8日~2015年1月30日)

泉太郎は、ずいぶん素朴にマイルドになったものだと思っているところに、泉くんがぬぅっと姿を現した。その第一印象を彼に語ると、彼もそれをすんなり認めた。たしかに、このくらいストレートなほうがマーケットでは売れやすい。これはまったく悪いことではない。なぜなら、アートにとってメッセージが明確であることは、コミュニケーションをより有効に広範囲にするからだ。だが、彼の話を聞いているうちに、やはり一筋縄ではいかないものが飛び出してきた。さすがに泉くん、不可視なギャップを各作品の各所に忍ばせてあったのだ。そのギャップが表現にアクセントを与えるだけでなく、その両端の表現を歪ませて、絶妙にコミカルな魅力を添える。それは、時間のギャップを表現する動画の静止画のパラパラ漫画に、典型的に現れる。あるいは、5人の人間のフリーウォークの写真が空間的に切断されて、床に敷かれたコンクリートの舗石の痕跡になる。最初の写真に写された作品は、モノクロームの絵画かと思いきや、街の風景を切り取るための背景だったりするのだ。泉のテクストを切断する狡猾な手さばきは冴えまくっている。

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開発好明 「日の出・月の出・印象」展(ギャラリー・ハシモト、2014年12月19日~2015年1月17日)

展覧会のタイトル、作品とも風刺の効いた開発好明の個展。これまでユーモアを含んだ政治的表現を精力的に発表してきたアーティストの新旧の作品は、印象派のモネの作品「印象 日の出」にかけて、日の出と月の出の時間的推移を追いながら、日本とアメリカとイスラムの国旗を描き出す(天体の運動のなかで、それぞれの国旗が不意に出現する時刻がある。イスラム国の旗には必ず三日月と星印が刻まれている)。そのことによって、現下の政治状況が仄めかされる。日の出から月の出へは、1999年(湾岸戦争時の派兵問題)から、2014年(集団的自衛権をめぐる憲法改正問題)までの歳月が流れているが、この間、日本を含む世界の情勢は急速に変化した。日本は、そこに否応なく組み込まれていくだろう。最近のシリアで起こった日本人の人質殺害事件への政府の対応は、この方向への積極的な関与を決断したかに見える。国民も、支持率で見る限り憲法改正を受け入れようとしている。このような状況で、アートは何をなし得るだろうか? 開発の作品が、今や地口や冗談ではすまされなくなって、鳥肌の立つ不気味な事態と感じられてしまう時代に突入していると驚くのは、私だけではあるまい。

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「活動のデザイン―The Fab Mind」展(21‗21 Design Sight、2014年10月24日~2015年2月1日)

非常に興味深く面白い作品が並んでいた。日常生活を改善する素敵なアイデアがいっぱい。しかしながら、デザイナーの思い描く世界は日の目を見るのだろうか? たしかに、すでに実現されているものもあり、便利で美しい世の中になるのを助けてくれている。これこそ、企業の儲けのみを目的とするのではない、デザイン本来の誇り高き機能ではないか! とはいえ、それでも具体化された世界は、理想とはほど遠いと感じられる。私のこの懐疑は、デザインが未来をバラ色の夢として描く傾向にあるところから来ているのかもしれない(改良主義で進歩主義のデザイン。そのオプティミスティックな希望は、どこから? 反対のペシミスティックあるいは絶望するデザインはないのか?)。だが、バラ色と見える世界は、ディストピアではないのか?
この疑問に答えるのは、奇しくも同展覧会に出展された「ドローンの巣」(Superflux)だったかもしれない。それを見ながら思ったことは、未来においてわれわれは疎外も物象化されもしないだろう。その意味で完璧とは言わないまでも満足できるほどにわれわれは自由だが、隈なく監視されてシミュラークルと化している。展示作品のことごとくが、人間をシミュラークルにする装置だとすればどうだろうか? 人間の自由まで管理された世界が、われわれを待ち受けているとすれば…。

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Superflux「ドローンの巣」



「観音山 岩名泰岳」展(MA2 ギャラリー、1月14日~2月7日)

同じ素朴さといっても、前出の秋山とはまったく出方(趣き)の異なる絵画の展覧会が開催された。岩名泰岳の個展である。彼が、ドイツから帰国後、故郷の三重県の伊賀に引きこもって制作に打ち込んでいることは、ツイッターで聞き及んでいた。その成果がようやく東京で鑑賞できる。「観音山」と題された個展は、彼の住む家の裏にある山にまつわる出来事がテーマになっているのだろうが、伊賀から遠く離れた都会に住む人間にとっては、それはまったくの未知の世界(宇宙)である。それが幸いしてか、彼の絵画を物語に回収されない直接的なインパクトのある表現として受け取れる。たしかに、絵画の表面的な特徴は素朴(プリミティブ)なスタイルではある。そこに、伊賀の地域の山岳にまつわる呪術的な意味が籠められているかもしれない。しかし、先述のほどよい距離が介在して、われわれには彼の技術的な巧みさが先に視覚に飛び込んでくる。とはいえ、それが目立つようなわざとらしさはない。形式としての洗練と内容の素朴さが、見事に融合した作品だろう。

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友政麻理子 「近づきすぎてはいけない」展(Talion\Gallery、1月10日~2月8日)

FBで作品の展示構成を見せたので、ここでは映像の内容の一部を動画で示しながら、ブルキナファソのお父さんと日本の娘の擬似家族的な交流を説明してみたい。過去に彼女が行ったフィクションの父親との対話のパフォーマンスは、日本では気心が通じて相手が他者の役をこなさなかったように見えたり、台湾では一方通行のモノローグ調のように見えて、あまり心を動かされなかったりしたが、このヴィデオでは、アフリカのブルキナファソで親娘の間に、確かなコミュニケーション(意思の疎通)があったように思う。それは、言葉を越える感情の交わりだったが、言葉(お互いが優しさと誠意をもって話す各々の母語や拙い英語、それに身振り手振り)なしには成立しなかったのではないか。

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中村亮一 「Recollections」展(KOKI ARTS、1月10日~2月14日)

中村亮一は、一貫して人間や人形を用いた内面(感情)の表出に取り組んできた。今回のモチーフには、家族など身近な人々を選んでいる。主題が内面となれば、作者が親密な感情を抱きやすい人間が最適なモチーフだろう。他者の感情を引き出すには、表現主体から感情が喚起されることが潜在的な要件になるからである。「記憶=回想」と題された個展に展示された作品群は、このタイトルから想像されるように、作者の過去の経験を主要な内容としている。とはいえ、それは正確に過去の事実を再現するものではない。記憶に参照しながら、そこから離脱する想像力のモーメントを含み、感情を効果的に醸し出す幻想へと導かれる。ただし、現実から完全に切り離された幻想ではない。それは、中村が描くのがあくまで彼ではない他者だからである。
これらの絵画の特徴は、変形カンヴァスだろう。標準的な矩形のカンヴァスではない絵画は、すでに様々なタイプが試されてきたが、中村の絵画ほどの奇妙な外形の作品はほかにはあるまい。この形は、どこから生まれるのか? シミの広がりのような、絵の具が垂れたような、偶然にできたと思われる不定形のカンヴァスは、それから想像される物理的起源を未だに保持している。その外形に、想像力による幻想化という主観的なイメージがはめ込まれる。物質的必然性(物理的制約)と想像的可変性(主観的操作)の鬩ぎ合いが生じるのだ。その齟齬が、内容のイメージに深遠さの次元を与えるのである。

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Dialogues展 (NICA)
第1回展 ひかりのまち(1月16日~1月31日)
NICA(Nihonbashi Institute of Contemporary Art)の開館記念の連続二人展の第1弾は、シャーロット・マクゴワン・グリフィンと栗山斉の二人展だった。東京のど真ん中にできたプライベートのアートセンターのこけら落としの企画展として、グリフィンと栗山は、ジャンル的に別だが共通の問題意識を持っているように見える。それは、二重構造をなして、土台にはメディウムとしての光、そして、光に媒介される精神的な要素である。グリフィンは、木と紙を用いた構築物がサンクチャリのような雰囲気を醸しており、江戸時代商業の中心だった日本橋に残された大福帳をなかに展示している。この世俗性と容器の自然の素材からなる宗教性が一体感をなしていることに、栗山の蛍光灯の構成物が呼応し、グリフィンと同じ二重の構造を開示する。それは、光と宇宙のらせん構造である。蛍光灯(とガラス管)という物質的要素と、それが描き出す宇宙の進化を予感させる形態は宇宙論につながる。
素材は自然と人工で異なるが、二つの作品はその狭間で光が交錯しながら混じり合い、一方の宗教性と他方の宇宙論というプレモダンからモダンへと歴史的変遷をたどる精神が出会うのだ。

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その二重構造は、第2回展の「かわのまち」(2月6日~2月21日)にも受け継がれて、ジョン・ササキと森田浩彰のコラボレーション作品は、日本橋界隈を流れる川に架かる橋を異なる文化をつなぐ懸け橋と見立て、その下を流れる川の底から引き揚げられた様々な投棄物に、両岸の世界に通底する物質的基礎(とはいえ自然ではなく、産業生産物の都市の土台である)を見出している。この作品は、第1回の精神的色彩の強い作品と比較して、物質的なものが強調されていると言えよう。

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現在の日本のアートの残念な体たらくに鑑みると、決して広くはないが、このスペースが今後東京のアートシーンに刺激的なインスピレーションを吹き込む役割を果たしてくれることを期待する。

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佐々瞬 「とある日のこと(箱を受け取る)」展(Alainistheonlyone、1月15日~2月21日)

展覧会への私の解釈は以下の通り。
作品は鑑賞者の主観(解釈主体)に完全に委ねられているが、その圏域からも作品が抜け落ちていくところが、スリリング(典型的なのか、箱が持ち出されるかもしれないこと。作者から作品が決定的に喪失する危険性がある。「関係性の美学」がからかわれているのだろうか?)。佐々瞬が作者であることは間違いないが、作品と作者を、鑑賞者やテキスト(台本)やトーク([代理トーク])の介入で引き離そうとしている。作品の外部にいることで、逆説的に作者となるのか?

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会期中に行われた[代理トーク]の解釈は次の通り。
代理は、単に説明するのが苦手なので身代わりを立てただけなのかもしれない。それは、説明がもっともヘタだと思われる泉太郎を指名して代理に選んだことで予想される。素の人間も演技しているのに、代理をテーマにしたので、代理の演技に対立する役目を素が担わなければならなくなった。そのため素は素として反演技となり、演技を剥奪されて演技と無演技の素の間の懸隔が極度に狭まり、トークの後半息苦しい窒息状態に追い込まれたのではないか。それに嫌気がさして逃れようとし、アーティストの代理の各自の反応が混乱をきたしたとは言えまいか。それは、素朴な演技に反省を促された人間が陥る自同律の危機である。素朴さと反省の間には深淵が横たわるのだ。

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結論。作者と作品の間の隔たりを様々な仕掛けで拡大することで、その間に鑑賞者やテキストを挿入して多様な解釈を繁茂させる。さらに代理の解釈を利用して、作品の豊饒な意味を確保する。あるいは、代理の意見で煙に巻き作者の真意をカムフラージュする。さて、どこに真実があるのだろうか?



ホイッスラー展(横浜美術館、2014年12月6日~2015年3月1日)

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ホイッスラーが生きたのは、アートをめぐって激動の時代だった。1834年にアメリカで生まれた彼は、1855年にパリに、さらに1859年にロンドンへと移住した。その後、1903年に没するまで、大きく前期(〜65年)と後期(66年〜)に分けられる活動に専念した。彼の活動した19世紀後半は、絵画の歴史で言えば、再現的なもの(具象)から非再現的なもの(抽象)への移行期、いわゆるモダンアートの黎明期として捉えられる。そして、ホイッスラー亡き後の20世紀は、この過程がさらに押し進められて純粋な抽象画に至るというのが、絵画史の通説である(この単線的な発展史観が正しいかどうかは、ここでは問わない)。
ホイッスラーの今回の回顧展では、クールベに代表されるフランスのレアリスムに影響を受けた彼の前期の絵画に興味を抱いた。ホイッスラーの写実主義的な描写のリアリティに強く惹かれたのだ。展覧会の最後の展示室の壁に書かれたホイッスラーの言葉、主題と形式(色彩と形態)は無関係であるをまともに受け取りたい。主題は無用ということではなく、その二項の間には大きなギャップがあるということだ。彼の唯美主義的な発言には騙されないようにしたい。むしろ、彼の作品に内容(明確なメッセージ)があることをカムフラージュしている。それは、たとえ後期の作品であろうと、暈されることはあっても主題がなくなるわけではないことではっきりする。
上述のギャップが重要なのだ。彼の絵画には主題と形式が無関係に共存している。彼の主題が、他の主流(レアリスム、ラファエロ前派、印象派、象徴主義だが、これらの前衛は当時は周縁にあったが、現在から見れば主流という意味で)の運動から選ばれていることに注目されたい。ホイッスラーは、主流(メジャー)から様々な要素を引用してデフォルメするマイナー(ドゥルーズ)なアーティストだったのだ。表現の形式の要素である線も形も色彩も意味であり、それがモダンライフの豊かさを構成しているのである。
これは、彼が採用したこの戦略は、現代にも適用できるだろう。現代アートで使える有効な方法である。もちろん、まったく同じ要素ではなく、例のギャップを活用するという意味で。現代アートでは、形式にシミュラークル(ジャポニスムのシミュラークルも可能か?)、主題として、ホイッスラーのようにブルジョア生活ではなく、社会的、政治的問題が取り上げられる。
ホイッスラーの画業における白眉は、やはり「ノクターン」のシリーズだろう。回顧展では、このシリーズの作品が少ないと思われたので、もっと数を揃えて欲しかった。絵画であれ水彩であれ「ノクターン」を見ていると、同系色の色調の繊細で微妙な配列が、画面に物事の判然としない空間を生み出していることに気づく。この曖昧な空間は、ランシェールの言うように政治的(ランシエールによれば、政治とは直截に感覚の配分と布置)である。これは、ベンヤミンの言う「美学の政治化」ではないか? ならば、ぼんやりとして薄暗い空間は革命的だろうか? それとも反動的なのか?



オル太 「ヘビの渦」展(NADiff Gallery、2月6日~3月8日)

オル太にしては珍しい金属彫刻が、スペースのほとんどを占める。水を電波=情報に見立てて、現代の政治が大量の電波=情報を頭から浴びせて人間を翻弄し洗脳する様を揶揄する作品。オープニングでは、模型の国会議事堂のなかに線香を供えて、国家の脳たる議会の死を暗示するパフォーマンスを行った。その前の壁には、選挙ポスター用の掲示板を模した映像を投影し、その擬似ポスターに政治の専横を暴露したり、民衆を抵抗へと鼓舞する標語が書き込まれる。素材は変われども、オル太のいつもながらの誠実なアナログ感覚(今回は内臓感覚的)は健在であり、プリミティブだが洗練された情念あふれる現実批判は鋭い。

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初日に行われたパフォーマンスから


今津景 個展「ブロークン・イメージ」(山本現代、2月28日~3月28日)

イコノクラスム(図像破壊)をテーマに、仏像、瓦などの図像と、それを破壊したり崩したりする絵筆の動きが残す絵の具のマチエールの絡み合いが、なんともセクシーな空間を生み出す。そのためか、絵の具のマチエールがイリュージョンのように感じられる。図像と物質の区別と対比が図と地の反転を引き起こし、鮮やかな印象を脳裏に焼き付ける。イコノクラスムを通して、筆遣いと図像とマチエールの関係に再考を促す絵画ではないか。

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2015.03.01 | コメント(0) | 展評

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展覧会へのコメント(11月)



「リー・ミンウェイとその関係」展(森美術館、9月20日~2015年1月4日)

リー・ミンウェイの作品を見て「関係性」について改めて考えることは、「関係性のアート」の発案者のニコラ・ブリオーにすでに感じていたことだが、どのようなものにでも「関係性」を当てはめることができ、結果、「関係性」を証明する作品は既存のアートでよいという現状肯定の口実にされる懸念が拭いきれないということである。ブリオーは、今年の台北ビエンナーレで、現代の最前線の状況である“Great Acceleration”(科学技術の飛躍的な発達)の下での“Antropocene”(新しい人間)に「関係性」を適用して分析し、その明確化を試みた。しかし、彼の理論の本質的なモダニズムに変化はなかったと思う。
話をミンウェイの作品に戻せば、展示の前半にある作品(「プロジェクト・繕う」)は、「関係性のアート」で既成のアートの枠組みを打ち破ると説明されているが、すでにアートがどのような様態であろうと構わないインフォーマルなアートの現代では、このステートメントにそれほどの威力はないのではないか。

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展示の後半の作品(「広がる花園」)は、「関係性」をアーティストと鑑賞者から、鑑賞者が花を手渡す見知らぬ他人へと拡張することで、彼の作品にようやく緊張感ある可能性が萌してきたような気がした。しかし、これも掛け声だけの無責任な標語に終われば、せっかく芽生えた可能性も潰えるだろう。

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「パランプセスト―重ね書きされた記憶/記憶の重ね書き Vol.4 小林耕平」展(αM、10月11日~11月8日)

伊藤亜紗のテクスト「透・明・人・間」を元にして小林耕平が制作した映像とオブジェのインスタレーション。映像は、小林が一人ないし二人の人間に指示を出してパフォーマンスをしてもらう様子を撮影している。インスタレーションでは、映像のなかにあるオブジェが会場の床に置かれることで現実と映像が接続され、現実のオブジェが映像に送り込まれる。すると、それに引きずられて鑑賞者も映像に吸収され、映像のなかのパフォーマンスの架空の目撃者となる。鑑賞者は目前の映像に溶け込むこと(感情移入ではない)で、「透明人間」になるのだ。そこにありながらないことが、小林の作品における「透明人間」の定義だからである。
とはいえ、小林の映像のなかではオブジェ(物質)が透明になることはない。彼に指示を出される人間が透明になる役割を引き受ける。透明になることで彼らは媒体と化し、他者ここでは目撃者である鑑賞者に、媒介される特定の感覚と認識を伝える。だが、この作品ではそれが何であるか分かりにくい。その訳は、映像の主題が透明化する媒体の人間だからであり、現実をモチーフとしながら媒介される社会が浮かび上がらないのは、媒体の人間を含めて人物たちが行うパフォーマンスが、基本的に社会から切り離された「遊び」だからである。
この作品が手探りで人間を透明化して媒体とする意図は、どこにあるのだろうか。ニーチェは、たしか人間存在の透明化の不可能性を語っていた。小林のステートメントには透明化の目的らしきことが記されているが、そのどれもがニーチェを揶揄するかのように、「透・明・人・間」の試行錯誤へのコメントになっていたように思う。
いずれにせよ、鑑賞者が透明人間となって参加する現実世界を舞台とする映像は良い意味で軽く、かつ、その現実と作品の内容の非政治、非社会性のギャップが不思議な印象を残す作品だった。

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「荒木経惟 往生写集」展(資生堂ギャラリー、10月22日~12月25日)

壁面下部に並ぶ2014年の銀座の往来を撮影した白黒写真と、壁面上部のやはり白黒の空の写真は、紛れもなく死を暗示している。白黒の風景とは逆に、静物の毒々しく極彩色の花もまた、生花という名の死であり、そこに添えられたオモチャも死物である。かくして展覧会は、会場の説明にあるような「往生」から「再生」への転換ではなく、荒木の晩年を美しく飾り立てる能弁なイメージの連なりだった。

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「ヴィック・ムニーズ “Small”」展(nca | nichido contemporary art、10月24日~11月29日)

ヴィック・ムニーズの作歴を通観すると、作品のスケールが極大から極小まで振れていることに気づく。それは、彼の名前を世界に知らしめた素材とイメージの間の齟齬に社会的批判を込めた写真についても言える。そのようなことになったのは、イメージとなった対象の実物大のサイズと、写真に写されたイメージの大きさとの間に、拡大と縮尺に関する一定の基準がないからである。
イメージは理論上、無限に拡大するすることも縮小することもできる。したがって、極大や極小は、それを実現するテクノロジーの特性と考えてはならない。逆に、テクノロジーは極大・極小の動きに制限を課す。それはイメージに特有の属性であり、イメージ次第で、極大化と極小化が決定されることになる。
ムニーズは、今回の展覧会では極小の世界に照準に定めて視覚化することに挑戦した。そのアクロバティックな表現に驚くことだけが、これらの作品の真骨頂ではない。前節で述べたように、最先端技術であるナノテクノロジーの実力を証明することに表現の主眼があるわけではないし、また、ミクロコスモスの神秘を白日の下にさらすことを狙っているのでもない。イメージの可塑性を極小の世界に適用して、極小化(それはテクノロジーの現時点での限界である)による物質的状態の凝集を見極めようとしているのである。そのためには、撮影された画像を知覚可能までに引き延ばすテクノロジーが要請される。
極大化がけっして物質の散漫化を意味するのではなく、物質のダイナミックな展開を目指した表現だとすれば、極小化は物質の密度の集約を目指すことで、物質世界の堅固さを証拠立てる。そうすることで、ムニーズの作品はモダンを再評価している。モダンを回顧することだけが、モダンの再評価の手段ではない。極小世界に注意を集中することで、モダンを支持してきた物質世界を確認すること。これが、ポストモダンの表層を漂う寄る辺ない人間に、自らの拠って立つ土台を感知させる。ムニーズによるナノスケールのイメージの拡大の背景にある考え方は、以上のようなことではないだろうか。
しかし、それだけではモダンにオマージュを捧げる表現に終わってしまうだろう。実は、その先があって、この凝集した物質世界がイメージであることを、彼の作品は含意しているのである。

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以上は、微小な砂粒にナノテクノロジーを使ってドローイングした城の拡大写真。

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以上は、培養地のシャーレでウィルスなどの細胞を増殖させてできた装飾模様の拡大写真。



「山本雄基 作品展 “parallel circles”」(伊勢丹新宿店アートギャラリー、10月29日~11月4日)

色彩とサイズの様々な円と、それらを正方形に構成する規則によって複雑なパターンを描き出す絵画。この組み合わせのバラエティが尽きることはないと、アーティストの山本は述べた。
今回の個展を観て感じたのは、彼が意図する表現には二種類あるのではないかということだった。円の組み合わせの多様性ではなく、それらの円が描かれるレイヤーの重なりによって、奥行きが3次元としてはっきり認知されるものと、奥行きが靄がかかるようにぼんやりとしているものである。この二つのタイプの奥行きのイリュージョンは、会場の照明の強さで余計に目立っていた。
イリュージョンといえば、評論家グリーンバーグが言及して以来注目され、モダンの絵画はそれを駆逐することを試みたが、しぶとく生き残ってきた要素である。山本はそれを意識的に用い、彼の絵画の重要な特徴としている。
私は、かつてリヒター論でこのイリュージョンを俎上に乗せ、古典絵画の再現的なものから、モダンによるイリュージョンの排除、そしてリヒターによる非再現的イリュージョンの生成という歴史的変遷を仮説として立てた。その時の予想は、2010年代の現在間違っていないと思う。現代アートは、この非再現的イリュージョンあるいはイメージをめぐって推移しているのだ。
この流れに、当然山本の作品も加わってくるだろう。そのとき、彼が織りなす先述の二種類のイリュージョンは、どのように絡むのか。というのも、彼の作品から判別される二つのイリュージョンのうち、明確な空間を分節化するものはモダンの物理的な空間に対応し、ぼんやりと曖昧なものはポストモダンの空間に対応しているように思われるからである。これは、表面的な形式的分析の結果ではなく、モダンとポストモダンの世界観から生まれる決定的な違いである。
モダンアートはアンチ・イリュージョンだったが、最終的にそれから逃れられなかった。のみならず、モダンの空間自体がイリュージョンであったことを、反省的な思考が確認しつつある。それが、現在のアートの活動に大きな影響を及ぼしている。
彼は今、この二つのイリュージョンを彼独特の方法論で検証しながら吟味し、未来に向かって飛躍のバネを鍛えているのかもしれない。山本は、今後の展開に目を離せないアーティストの一人だろう。

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「逆転移/リギョン」展(銀座メゾンエルメスフォーラム、10月31日~2015年1月7日)

リギョンのインスタレーションを見ていると、光がニュートンによって光学現象として捉えられるようになって以来、光を真理の寓意としてプラトン流に理解する道が閉ざされたという感想が浮かんだ。アートは科学ではないのだから、神秘主義が大真面目に信じられてもよい。たしかにそうだが、科学的知見は、アートに甚大な影響を与えている。それゆえ、アートにおいても神秘主義は超越者を抜きに構想されねばならず、それが2013年のヴェネツィア・ビエンナーレの隠されたテーマにもなっていた。そのことを、リギョンは知らないはずはない。
そうした眼差しで、今一度作品を見てみよう。彼の用いる光は、真理と結びつく神秘的要素が一切ない。すると、どう見えるか? 壁に描かれたほとんど判読できないテクストや、眩惑的な光沢のある広い床面(滑りやすい)の淡い反映が、空間を幻想化していることに気づく。とはいえ、そこに既知の神秘的世界を連想させるものは何もない。この幻想空間を神なき神秘主義と言えばよいか。
壁が微妙に湾曲しているもう一つの作品の空間についても、同様である。それは、中央の天井から吊るされた漁船用の強烈なライトによって鑑賞者が目くらまされるほどに明るく、そのため壁面の境界が消失して縹緲とした空間に変貌している。だが、そこにも神秘的要素はない。神秘主義に毒されていないこの神秘が、リギョンの作品の魅力である。

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Chim↑Pom展「ヤジルシソビエトル~ChimとPomのパラドクス」(無人島プロダクション、11月1日~11月29日)

我々の生きる世界には乗り越えるのが困難な様々な壁がある。その最大の壁は死だろう。それをテーマとした作品が、ギャラリーの天井裏に隠されていた。だが、現実問題として最大の難関の壁は国境である。会田誠扮するオサマ・ビン・ラディンが言うように、近代国家は多くの犠牲者を出し、今も出し続けていることは誰もが知っている。したがって、短絡的ではなく国家を廃棄し国境を消すことは、9.11のような惨事をなくすためには急務なのた。それは、Chim↑Pomのメンバーの一人が、アメリカで展覧会をコヨーテとともに開き、“I love America”と恙無く言えるためにも不可欠である。展覧会場には、様々な壁=境界を乗り越えていくパズルのピースがはめ込まれていた。このパズルのピースこそ、Chim↑Pomの自画像ではないか。これらのピースが、ギャラリーの壁一面を埋め尽くしたとき、ギャラリーというアートの制度空間が廃棄され、晴れてアートは巷にあふれ出ていくことができる。最後に、現実のラディンではなく、ラディンの死後アナーキストとして生き延びたビン・ラディンの演説に熱烈な賛意を表したい。

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「ぼーけん、菊池良太」展(Island、11月6日~11月23日)

菊池良太は、フリークライミングに長らく親しんだ後、芸大に入り、このような作品を作り始めたという。それが、素直に現れた作品には好感が持てる。人間は、何事も完璧にできるほどスーパーマンではないからだ。だが、彼の作品を見ていると、このアーティストはスーパーマンではないかと思えてくる。何にでもトライして、それを踏破するように見えるのだ。しかし、何のためにやるのだろうか? そこに山があるからだと登山家は言った。フリークライマーなら、そこに障害物があるからと答えるだろうか? そのとき、障害物とは何か? フリークライマーは不可能に挑戦しない。できると踏んだものにしか挑戦しない。その確実さが、写真を通じて安心感をもたらす。と同時に、クライマーの常人とは異なる空間に対する感覚が、こちらに伝わってくる。それは何か? 彼は、障害物を征服したのだ。彼が登る人工的な建造物のことではない。それは、宙にもんどりうって飛び出したイブ・クラインが、地上に叩きつけられる前に実感していただろう空虚の手前にある重力である。この重力からの解放こそが、フリークライマーとしてのアーティストの快楽なのではあるまいか。そういえば、ロバート・インディアナのLOVEの彫刻の隙間に横たわるアーティストは、アートという無重力の揺りかごに抱きかかえられた赤ん坊のように見えはしないか?

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2014.12.15 | コメント(0) | 展評

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展覧会へのコメント(10月)



ヨコハマ トリエンナーレ 2014(横浜美術館+新港ピア、8月1日〜11月3日)

「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」 。今回のトリエンナーレにつけられたこのタイトルがどう解釈されるにせよ、このように時代がかったタイトルは空振りに終わる運命ではないか。世界に中心がないことは、陽の目を見るよりも明らかだからだ。たとえ中心があるように振る舞ったとしても、それは空虚を隠すシミュラークルでしかない。だが、それを本物と取り違え、張りぼての玉座に祭り上げる人間がいる。それこそ、ポストモダンの右傾化の証拠である。
再度、確認しよう。世界に中心はない。あるように見えるとすれば、それはフェイクであり、そこにあるはずの忘却の海もフェイクである。ということは、世界の中心には決して忘れることのできない核(「器官なき身体」)があり、それが世界を支配している。忘却は、この真実を掩蔽する仮装のマントなのだ。
さて、このタイトルのトリエンナーレは、白(未生)の無の第1話から始まり、忘却(もう一つの白)の無の第11話で終わる一つのサイクルを描き出している。しかし、その間に入る作品の数が少ないので、二つの無の間のスペースに、無ではない冗長な空白があることに気づかされる。したがって、サイクル巡り(鑑賞)が充実感をもたらすことはない。確かに、第2話と第3話に登場するアーティストたちは素晴らしい。

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以上、第2話 釜ヶ崎芸術大学の活動の産物と、その記録

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エリック・ボードレール、The Ugly One、2013年

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足立正生の原作(一部)

だが、第2話の釜ヶ崎芸術大学と、第3話のタリン・サイモンとエリック・ボードレール(彼の映像作品は傑作。足立正生の原作とナレーション、注目のレバノン人アーティスト、ラビー・ムルーエが主役となれば、面白くないはずがない)の二人を除けば、

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ドラ・ガルシア、華氏451度(1957年版)、2002年

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マイケル・ラコウィッツ、どんな塵がたちあがるだろうか?、2012年

第3話のドラ・ガルシアとマイケル・ラコウィッツの展示作は、彼らの実力を十分に示しているものとは到底言いがたい。

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第3話 大谷芳久コレクション

また、大谷芳久の戦時中の興味深い資料も、深く記憶に刻むにはもっと数多く陳列されてよいと思う。

ここまでが、二つの会場の一つ横浜美術館で鑑賞される展示の半分で、後半のスペースは、アーティストがキュレーターを務めたことの不可避の代償なのか、アーティスト神話の復活(逆のアーティスト否定の第5話Temporary Foundationの巨大インスタレーションもあるが、否定は肯定の裏返しであり、いずれアーティストを復活させることに帰着する)を目論むかのようなセクションで、まったく手応えがなかった(見っけものは、アリーナ・シャポツニコフのみ)。
1960~70年代、ロラン・バルトによって「作者の死」が宣言されたが、80年以降ポストモダンに入ると、またぞろ言い訳もなく、アーティストがアートの世界を大手を振って歩くようになった。そして今、遂にアーティストを神格化する物語が臆面もなく語られることになるのだろうか? 曰く、シシューポスとしての力業(第4話)、無邪気で自分勝手な子供の遊戯(第6話)という具合に。だが、シシューポスの働きに人類の救いを託す者はいないし、結局大人に依存することになる我儘な子供の遊びに付き合う暇な人間ももはやいないのではないか。
「作者からテクストへ」とバルトはかつて語ったが、では時代を経た現在、安易にその逆を遡行すればよいのか? そうではあるまい。テクストから作品を復活させ、その作者を神格化するーー横浜美術館の中心にあるマイケル・ランディの巨大な容器は、アーティストの肥大化した自我の入れ物であり、いかに失敗作を放り込むごみ箱だとしても、彼らの名声を高めるための自己満足の具でしかない。そうであれば、このごみ箱をひっくり返さなければなるまい。つまり、鑑賞者はこの容器のなかに入って外を眺めることである。そうすれば箱の外の光景は、どのように見えるのだろうか?ーーのではなく、テクストから鑑賞者へとアートの中心を移動させなければならない(鑑賞者に中心を移動させることは、鑑賞者が潜在的に無数存在するので、中心の分裂、すなわち最終的に中心の消滅を意味する)。鑑賞者としての市民のためのアートである。とはいえ、それは鑑賞者に阿ることではない。作者、作品、鑑賞者を繋ぐ関係のなかで、鑑賞者を刺激して行動に導く努力が、アートに求められているのだ。
そうでなければ、第10話の福岡アジア美術トリエンナーレの紹介コーナーに登場する今「熱い」アジアのアーティストが、アジアの歴史的状況を強いリアリティをもって視覚化する作品は生まれないだろうし、彼らの創造の折角の努力も無駄になり忘れ去られてしまうだろう。これらの作品が、せめてもの慰めであるかのごとく、第11話の間に挿入されていた。ところが、このように第10話で少し挽回したと思ったら、それに続く第11話のトリを飾る松澤宥でとどめを刺された。松澤の「人類よ、消滅しよう」は、すべてを忘却の海に沈み込ませるブラックホールのようではなかったか。
だが、振り返ってみよう。フェイクの中心の背後に何も変わらない恐ろしい真実が蹲っている。それが、日本に歴史の終焉をもたらしたのではなく、停止したままの歴史を紡ぎだしている。歴史は忘却されたのではない。凍結した歴史を、我々が歴史の臨終と勘違いし、20世紀末のポストモダンに流行した「歴史の終焉」のグローバルな風潮に重ね合わせて、狡猾にすり替えてしまったのだ。
このような非歴史の歴史が、揶揄するかのようにわれわれを惑わしている。だが、惑わされようのない厳然たる資料は、いくらでもある。先述の大谷芳久コレクションが、それだ。新港ピアでは、第11話の片隅に、土田ヒトミの広島に投下された原爆の記憶の収集があった。それは、原発事故の後では、とくにじっくりと見られなければならない作品である。

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さらには、前述の第10話のハァ・ユンチャンやチェン・ジエレンやキリ・ダレナのように、日本文化に特有の凄まじい忘却の力の嵐に抗して、忘れがたい作品を提示している者もいる。だからこそ、現在のアジアのアートは熱く燃え上がっているのだと胸を張って強弁したい。私たちにも、大谷芳久コレクションや土田ヒトミの広島のように、決して忘却の海に投げ捨てられない過去があるのだから(私は忘却をなんとしても押しとどめたいと言っているのではない。忘却はある場合は必要である。忘却を強いる権力や体制に対して抵抗することを望んでいるだけなのだ)。



「仮想のコミュニティ・アジア-黄金町バザール 2014」(8月1日~11月3日)

今回の黄金町バザールでは、若い日本人アーティストの健闘が光った。有望な4人のアーティストの作品を紹介しよう。彼らの作品に共通して感じるのは、端倪すべからざる〈蠢動〉である。

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青木真莉子

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木村了子

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地主麻衣子

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吉濱翔



「スターリング・ルビー "BC Rips"」展(タカ・イシイギャラリー、9月7日~10月4日)

これは後出のトーマス・ルフについても言えることだが、ルビーのように無条件でスケールが大きいと感じられる作品が、日本に少ないのはどうしてだろうか?
細部にこだわる緻密な構成の表現は得意なのだが、出来上がった作品の全体から、ルビーやルフのようなスケールの大きさは感じられない。確かに、ルビーと比べると細密で丁寧な描き方をしている。だが、こじんまりとまとまり、しばしばそう評されるように装飾的だとか工芸的だと思われて、そのまま省みられることがない。
それで何が悪いのか。スケールの大きさといいダイナミックさといい、それらの現象にどれだけ意義があるというのか? きっちりと仕上がっている方が、文句なく綺麗ではないか。ならば、どちらが優秀かを決めるまでもない。単に美的価値観の違いなのだから。
だが、そう言い切ってしまってよいのか?

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「Alexander Gronsky」展(Yuka Tsuruno Gallery、9月6日~10月25日)

トーマス・ルフの個展が行われているのと同じTOLOTのYuka Tsuruno Galleryでは、Alexander Gronskyの写真展が開催されていた。こちらは、ロシアの大地の大きさと、その上に形成された都市の郊外の奇妙な風景に漂う寂寥感に胸を打たれた。

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ナジルン展「The Breath of Nasirun―伝統の変容」(ミズマアートギャラリー、9月10日~10月11日)

ナジルンが歴史的に評価されるのは、彼の画業が民俗画や宗教画から出発しているにせよ、暗い色調に表現される土着的なものをベースに、モダンの文法(厚いマチエールと抽象的形式)を押さえていることである。彼の作品からわれわれが学ぶことができるのは、グローバル(ナジルンの場合はモダンアート)とローカル(インドネシアの伝統的アート)のギャップを知り、ローカルをどうグローバルにつなげるかを真摯に探求したことではないだろうか。

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「小川真生樹」展(Alainistheonlyone、9月18日~10月18日)

ん? 何もない? いや、よく見てみよう。ギャラリーのホワイトルームには何もない。従って、作品はない。だが、作品とは何か? もはや白い壁面に依存しない作品の形態があってもよいのではないか。それなら、すでにインスタレーションがあるではないか。だが、インスタレーションも、それを収容する空間を必要とする。それがクローズドであれオープンであれ。だが、この作品には展示スペースという特別な空間は必要ない(それは、展示スペースの裏のオフィスにまで、痕跡の作品が連続していることで証明される)。では、どうすれば表現が成立するのか? その答えは難しくない。表現しないことに、この作品の意義があるからだ。ということは、この作品から表現とは何かを問わなければならない。その答えは簡単に出ない。そこでアーティストに、なぜそこまで表現したくないのかと問うてみよう。 そこに、この作品の真骨頂がありそうだ。だが、まずは作品をじっくり鑑賞することから始めよう......。
スタッフの方は説明をしないように、とアーティストから指示を受けているとのこと。ホワイトルームの白さが際立つ。この地の空白の上に、表現の意味が展開されるとすれば、その意味を回避あるいは、少なくとも迂回(説明することを延期する)する意図(あくまでこちら側の推測の域を出ないが)があるのだろう。つまりコンセプトなき、あるいは差延されたコンセプト、あるいはコンセプトを実現する場としての白の地を避け=ギャラリーという制度を脱構築し、仮想のコンセプトとコンセプトの狭間にある沈黙に耳を傾けろとの暗黙のメッセージが発信されているのか。そうであるなら、言語による分節化によって生まれた穴を塞ぐ行為の意味が次第に見えてこよう。とりあえず結論として言えること。コンセプトなきコンセプチュアルアート。でなければ、コンセプトがあるかないか判明ではない曖昧なコンセプチュアルアート。

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松下徹個展「Wreckage」(みんなのギャラリー、10月3日~10月13日)

「スケールの大きさ」と言えば、松下は旧作の円形の絵画を、フラクタル理論を援用して説明している。周知のように、フラクタル図形の次元は一次元以上(輪郭線の延長が無限)なので、絵画に描かれたひび割れのフラクタル空間は、作品の平面性を超越して拡張される。このようにして、彼の絵画は円形の物理的な限界を突破する想像力の慣性を蓄える。では、新作のステッチを用いて奇妙なパターンを反復する絵画はどうだろうか? 新作の絵画もまた円形を基本にしているので、円という理念的なフォルムのもつ完結性によって、スケールといった拡張性ではなく、収縮的なモーメンタムを帯びるのではないか。その上、ほぼシンメトリックに構成された模様はスタティックな印象を残す。
だが、実際はそうではない。放射状の模様が、旧作にも増して外向するモーメンタムを孕むのである。

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「Thomas Ruff Photograms」展(Gallery Koyanagi in TOLOT heuristic SHINONOME、10月4日~11月15日)

スターリング・ルビーの欄でも述べたが、久々にじっくり観るトーマス・ルフの新作のフォトグラムに、スケールの大きさを感じた。そして、過去の作品には、被写体のイメージに凝集する存在の強度を。

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以上、2014年制作のフォトグラム
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福本健一郎 「Dear Friends」展(JIKKA、10月11日~10月26日)

福本の絵画であれ彫刻であれ、見ていると快楽が滲み出すような魅力を感じるのはなぜか? まさに美的快楽だが、カントが定義するような美的価値とは決定的に異なる。彼の技法は、一見稚拙でプリミティヴであり、作品のフォルムは、アウトサイダーアートのようにシンプルである。そのようなアートなら、世界にごまんとある。だから、福本は確信的にそれをシミュラークルの種として用いる。その効果として鑑賞者を魅了する爽やかさが、彼の作品にまといつく。巷で流行している可愛らしさではない。それはステレオタイプだから。タイプの模倣ではないプリミティヴのシミュラークルは、巧妙に微妙にモデルからずらされている。それが非類似の類似性である。福本は、そのスキルを自家薬籠中のものにしている。あとは、彼がそれを何に用いるかである。

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(つづく)



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2014.11.15 | コメント(0) | 展評

free 展覧会へのコメント(9月)

展覧会へのコメント(9月)



[光州](韓国)

Spiral Pavilion(Gwangju Biennale、9月5日~11月9日)

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上掲のGwangju BiennaleのSpiral Pavilionで行われていたのが、AA Bronsonと彼の仲間のコラボレーションによる展覧会。タイトルは、"House of Shame"。本来なら当ブログマガジンで連載中のBiennale Storyの枠内でレポートすべきだが、この展示のパートのみを取り上げても十分意味があると思うので、ゲイ・ワールド炸裂の圧倒的な内容を写真で示したい。

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AA Bronson作品

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以上、Spiral Pavilion1階の展示

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以上、2階の展示

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以上、3階の展示



「Sweet Dew Since 1980」展(光州市立美術館、8月8日~11月8日)

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すでにfbで紹介したように、本企画展は、検閲で話題となったSungdam Hongの絵画だけでなく、他にも政治的に興味深い作品があったので、それらを提示したい。
まず、検閲に毅然とした反対の意を表明した作品から。

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Sungmin Hong作品

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大浦信行作品


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Sondeok Kim作品
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Sondeok Kim作品
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Deokkyeong Kang作品
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House of Sharing作品。以上の4点は、従軍慰安婦を描いた素朴な挿絵風の絵画と、それを基に制作されたアニメ―ション。

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Heung-Soon Im作品。朝鮮戦争直後に済州島で虐殺された住民を調査して制作されたドキュメンタリー・ヴィデオ。

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Seahyun Lee作品

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比嘉豊光の写真作品。1970年代に沖縄で行われた学生・労働者の闘争の記録。

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Anna Jermolaewaのインスタレーションとヴィデオ。ご多分にもれずデモの規制が厳しくなっているロシアで、デモをレゴに肩代わりさせるユーモアある作品。

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様々な形で都市に介入し、異議申し立ての意志を表明するIgor Grubicのパフォーマンスとその痕跡。

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Num-jin Lin作品。伝統的な仏画(本展には、古い本物の仏画も飾られている)の様式を使い、仏の見守るなか現実世界の民衆の闘いと、それを弾圧する警官隊の姿を描いている。

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Amar Kanwarのヴィデオ・インスタレーション。彼にしては珍しくインド以外の国(ミャンマー)を題材にし、ミャンマーの民主化運動を取り上げた作品。

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Kathe Kollwitz作品。この展覧会場で彼女の作品を鑑賞すると、彼女の苦悩と悲嘆がより深い意味を帯びて立ち現れてくることに気づいた。

最後に、本展覧会に展示されなかったSungmin Hongの作品が、同じ美術館の別の企画展に出品されていたので、それを紹介したい。

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これらの連作版画の主題は、1980年代の市民・学生の民主化運動である。そのさなかに悲惨な光州事件が出来する。



「The Mirror and Monitor of Democracy in Asia」展(光州市立美術館、8月22日~9月28日)

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光州市立美術館の別館で開催されているのが、Asian Arts Space Networkが主催するアジアの若手アーティストの作品を集めたグループ展である。日本からは開発好明とChim↑Pomが招待されているこの展覧会は、アジアの民主主義の在り様をテーマにしているが、暴力的な表現が目立った。民主主義と暴力は、互いに相容れない概念だが、民主主義の存在と不在が引き起こす暴力(穏健なものから残酷なものまで)があり、もっとも残酷なものを紹介すれば(かなり過激なので、刺激の強いものが苦手な方はスキップしてください)、

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He Yunchang, One Meter Democracy。民主主義のルールに則れば、このような残虐な行為も許容されるという実例。

また、台湾で最近勃発した学生の政治運動の舞台を美しく映し出した感動的な作品、

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Yuan Goang-Ming, The 561st Hour of Occupation

そして、民主主義の危機(資本主義との齟齬による)のなかで、賢くサヴァイヴァルするインドネシアの若者の姿を描いた映像があった。

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Angga Cipta作品



[東京](日本)

「ジョージェ・オズボルト Lost in Translation」展(Taro Nasu Gallery、9月6日~10月4日)

1967年、旧ユーゴスラビアで生まれたジョージェ・オズボルトは、過去に美術史から様々な絵画を引用し、とくに色彩を用いてデフォルメしてきたが、今回の個展は、オリジナルのアフリカの仮面の色をシンプルに変えることで、魅力的な作品に仕上げた。これがオリジナルのアフリカの仮面をずらすことになり、シミュラークルが生まれる。その効果は、イメージが宙に浮くことだ。オズボルトが、それをストレートに表現していることは見事と言うほかない。





(後半につづく)


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2014.10.05 | コメント(0) | 展評

free 展覧会へのコメント(8月)

展覧会へのコメント(8月)



「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展ーヤゲオ財団コレクションより」(東京国立近代美術館、6月20日~8月24日)

国内ではなかなか見えることのない現代アートの傑作を前にして、鑑賞者の評判はかなりよいようだが、最初に少し皮肉を混ぜた疑問を投げさせてもらえば、国立美術館が、ついに白旗を揚げアートマーケットを受け入れざるをえない時が到来したのか? それほど、昨今の価格の法外な高騰ぶりが資金力のない美術館を打ちのめし、それが近寄りがたいアートマーケットを作り上げてしまったのか? それとも、美術館が美的価値のみに関わればよかった時代は終わりを告げ、リアリズムを追求するなら市場価値まで考慮に入れなければならなくなったのか?
あるいは、このようにマーケットで投資や投機の対象に作品がなった結果、あまりに高価な作品を所蔵できないことの恨みの裏返し(?)としてコレクション展が開かれたのか? そうでなければ、最後にビッグコレクターとのコラボレーションの展覧会を自画自賛していたが、展覧会を美術館が収蔵できない作品をビッグコレクターから借りる公認の言い訳にしているのか? そうなると、美術館がなにかしら道化のように見えなくもない。
さらに、現代アートに無知と目される大衆のレベルまで美術館が降りてきて、インターナショナルではなく彼らに理解しやすいナショナルな視点(なにしろ、大衆を操作する政治は右寄りになびいているので)と、文化論のクリシェである東西の文明の違いから、展覧会の企画を説き起こしている。だが、作品のコレクションをしているヤゲオ財団のオーナーは、彼が自慢げに真っ先に見せている台湾の画家サンユウの作品で東西の壁を打ち破り、ユニバーサルとはいわないまでもグローバルな世界に行き着いてしまっているのではないか?
美術館で、誰であれ個人コレクション展を開くこと自体、非難される謂れはない。しかも、サンユウの絵画で十二分に証明されたように、コレクターのブルジョワ趣味の優秀さは一目瞭然である。ところが、このコレクターが、植民地時代の宗主国ではなく、被植民地の台湾出身のコレクターだということに少なからず驚く。なぜかというと、戦前と戦後で文化的状況が逆転しているのではないかと思われるからだ(戦前からそうなのだとすれば、日本が軍事大国になるために支払った努力の代償はあまりに大きい)。
以上の疑問から、次のような関係が浮かび上がる。近現代アートでこれほど有名なアーティストの作品(大作も多い)を所有できるコレクターと、それらの作品を借用して陳列する美術館、それに、その市場価値にびっくりしながら見て回る鑑賞者=大衆(だが、プレートの説明の分かりやすさが、大衆が現代アートを知らないと仮定した上だとすれば、彼らを見損なっている。彼らは、下手をすると海外で学芸員より現代アートに頻繁に接しているかもしれないからだ)。
展覧会に関する私の感想を簡単に述べておこう。会場の途中に架けられたリヒターの絵画に付けられたプレートの説明は、近代美術館ならではの解釈の限界をさらしていたのではないか。それは、近代の限界である。そして最後の展示室で、それまで隠していたコレクターのブルジョワの本性、つまりキッチュへの不可避的な嗜好(写真の野外に設置されたマーク・クインの彫刻を参照)が図らずも漏れていたのではないか。これではヤゲオ財団は、2010年以降優れた作品のコレクションを継続し、国立美術館で展示されるほどの名声を博することは難しいだろう。
いずれにせよ、コレクター、美術館、鑑賞者の複雑で微妙な三角関係が鮮やかに見えた展覧会だったと思う。次回のブログマガジンで大いに参考にさせてもらうが、現代アートのグローバル・スタンダードに接する機会のほんとんどない日本で、その機会を与えてくれたことに感謝したい。





目「たよりない現実、この世界の在りか」展(資生堂ギャラリー、7月18日〜8月22日)

工事現場のような階段を降りていくと、ギャラリー空間が高級ホテルの絨毯を敷かれた廊下のようになっていて、廊下の壁には薄暗いランプと小さなドローイングが架かっている。壁には番号のついた扉が等間隔に穿たれ、各部屋の入口だと分かる。さらに進むと上に行く階段があったり、消火栓のある入口があったりして、それぞれ少し先まで行くことができる。一番奥には、扉の開いた部屋があり、鑑賞者は、そのなかに誘われる。こじんまりとした室内には机とベッドが置かれて、ホテルの一室と見て取れる。そのベッドのシーツに、“TAYORINAI GENJITSU / Konosekaino Arika”が縫い取られている。振り返って細い縦長の鏡を見ると、自分が映っていないで、その向こうに別の鑑賞者がいることに気づく。鏡が通り道になって、潜り抜けると向こう側は左右対称の部屋になっているのだ。そこは、文字までが裏返しになった部屋であった。この不可思議な感覚に陥る作品は、マイク・ネルソンやグレゴール・シュナイダーを思い浮かばせる環境設置型のインスタレーションだが、二人と違うのは、非常に綺麗なのと、たよりないからこそ細部にこだわるリアリズムではなかろうか。
鏡の国のアリスの虚構の裏返しは、目眩に襲われる現実だった。







「フィオナ・タンーまなざしの詩学」展(東京都写真美術館、7月19日〜9月23日)

上映されたドキュメンタリー『興味深い時代を生きますように』(1997年)では、フィオナ・タンの親族が、1960年代のインドネシアの政変に伴う華僑に対する弾圧で、投獄(彼女の祖父は、インドネシアの華僑の中心人物であったがゆえに、インドネシアの政権によって投獄された)や国外逃亡を余儀なくされたことが語られる(このあたりの事情を知ると、彼女の作品が文化やアイデンティティを主題にしているというより、歴史や政治を問題として取り上げているように思われる)。タンの家族も同様の運命に翻弄され、それがタンのアイデンティティ探求の旅の発端になる。彼女は、このルーツ探しの末に、ついに彼女の出自の中国の村を見つけ出すのだが、そこも彼女の故郷(永住の地)ではないと悟る。だが、彼女がそこを故郷と思えない理由は、案外深いところにあるのではなく表面にあるのではないか? 彼女の顔つきが中国人とは違うといった見かけの理由で(彼女が自分の顔に気にしていることは、様々なシーンで窺われる)。中国人でも欧米人でもない謎めいたこの見かけ(ここから導かれるのが、血縁がアイデンティティを支配するということだ)がイメージと結びつく。そして、彼女のイメージの探求(『影の王国』)へと進展していくのである。
展示室の映像作品を一口で言えば、映像で絵画を描くということになるだろうか。絵画のジャンルは、風景画あり肖像画あり室内画あり、そして神話画(『インヴェントリー』)まである。さすがに神話画は、脱中心化して理念を抜き取ってあるが。だが、映像は絵画よりマチエールがない分、ポストモダンの解放的な軽やかさを享受する。その映像を絵画にするというのは、歴史的な後退ではないのか?

同時開催の「岡村昭彦の写真」展は、タンの家族がディアスポラへと追いやられた1960年代に、インドネシアと同じく共産主義運動の発火点となったベトナムで戦争を取材した岡村昭彦の、味方も敵も、生者も死者もひとしなみに丹念に撮影する誠実な姿勢に感動した。フォトジャーナリズムの枠を越えた彼の精力的な活動は、もっと注目されてよい。





「五月女哲平:記号でもなく、もちろん石でもなく」展(青山|目黒、7月19日〜8月23日)

五月女は、絵画科出身ながら初期の頃は立体を制作していて、次第に平面へと移行したという。今回は、過去の具象や抽象の絵画から諸要素を切り取り、組み合わせたものであると説明してくれた。彼の作品は、カンヴァスの外形を含めて配列された色面の関係によって作られる。これらを観ていると、彼の作品が平面に収斂したことが納得できる。立体でなくとも、彼の意図は実践できるだけでなく、純粋に実験できるからだ。この平面がイメージであると、五月女は知っているのではないか。

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「行儀と支度 八重樫ゆい」展(Misako & Rosen、7月27日~8月31日)

私は、かつて八重樫の薄塗りの絵画を「プア・アート」と呼んだことがある。このプアは、イタリアのアルテ・ポヴェラとは違って、生の素材を意味するのではなく、用いる素材の多寡に注目して発想されたアイデアだった。だが今回、彼女の個展の作品は、絵具を厚く塗ってあるように見える。この厚塗り(あるいは重ね塗り)が、画面に深みや不透明性や透明性を与えていることは間違いない。現在、東京オペラシティ アートギャラリーに展示されている同じアーティストの絵画に描かれたフォルムの明確さも、この効果から生まれたのではないか。このように自在な技法によって明示されるのは、豊かさである。しかも、この豊かさは貧しさの裏返しであるだろう。貧しさは豊かさへと逆転されるのだ。

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「山田周平 X」展(aishonanzuka Gallery、8月1日~8月30日)

作品のすべての要素が引用と、そのコラージュで構成される山田のインスタレーション作品は、現実世界の構造を暴く。絵画に描かれるのは、スーパーマンの漫画から切り抜いた打撃音のPOWだ。それが、ハンコで押されて反復される。この変換のジェスチャーで、アメリカのヒーローの権威は、ものの見事に地に堕ちる。だが、この一連の作品の究極は、モーフィングによって平均値と化した過去の残虐な独裁者の哀れな風貌に現れる。もはや権力を批判するのに、ドーミエのように手の込んだ風刺は必要ない。近寄りがたい権威を失墜させるには、引用とコラージュの自動的な形成術であるモーフィングに任せればよい。山田の諧謔の遊びは、これからもアナーキーなノンスタイルを貫くだろう。

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「青木豊 Mouvements」展(sprout curation、8月2日~9月6日)

青木豊の作品からは、フェティッシュになりにくいものをフェティッシュにする試みを孜々営々と行っているように見える。当然、それは失敗するだろうが、失敗することは彼のアートのために吉と出る。なぜならフェティッシュの廃墟から、奇跡的にシミュラークルが立ち昇るからである。

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「無人島 ∞」(無人島プロダクション、8月8日〜9月15日)

無人島8周年、おめでとうございます。いつも面白い展覧会を見せてくれてありがとう。
9年目に突入して、ますます元気な作品を見せてくれることを期待します。

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無人島プロダクション8周年記念展。出展アーティストは、八谷和彦、八木良太、Chim↑Pom、西村健太、風間サチ子、臼井良平、朝海陽子、田口行弘、松田修、加藤翼。



「On This Planet 栗山斉」展(island MEDIUM、8月23日~9月14日)

シミュラークルとはモデルなきコピーである。だから、コピーではなくモデル作りへ向かう。オリジナルを創出しようというのではない。自然界にある(とされる)現象をモデル化する(以下のキャプションの説明を参照)。だが、このモデルは人工的に作られる(それが、栗山の作り出す装置としての作品である)ので、当然、自然とは異なる。このモデルが、シミュラークル(モデルの自然とは異なるモデル)と呼ばれる所以である。そう言えば、真空のガラス球は真空のシミュラークルであり、地球の回転の写真は星座のそれのシミュラークル(差異が刻まれた類似)=モデルではなかったのか。

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地球の自転運動の可視化。光の曲線は、星座ではなく都市の人工の光の軌跡である。
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生命の誕生の起源とされるタアミノ酸の合成の実験で、アンモニアとエタノールの化学反応を火花で生じさせる。三番目は、アミノ酸が生成していることを証明する試験紙の模様。
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地球上のH₂Oの循環を再現する装置。そのフォルムはピラミッドのように見える。ピラミッドは、宇宙のモデルではなかったか?



小西紀行「人間の行動」展(アラタニウラノ、8月23日~9月20日)

小西の作品は、ときにムンクやデクーニングやベーコンを思わせるデフォルメーションから、白く太い骨組みのような線が、タトリンの線描と同じ機能を果たす抽象化へと変化してきているように見える。だが、この変化の背景にあるのは、名前を挙げた画家たちのフィギュラティブを抽象化(物質主義に裏打ちされた)する意志とは違って、フィギュラティブの質的変化(物質からイメージへ)への意志だろう。それが、絵の具を拭い去ったような線描から読み取れる。

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テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

2014.08.31 | コメント(0) | 展評

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